鎌倉時代の荘園

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東京大学 年度 2001

設問番号 第2問 東大入試に学ぶ地頭の荘園戦略

 

次の(1)(3)の文章は,おもに鎌倉時代の荘園について述べたものである。これらを読み,また図をみて,下記の設問に答えなさい。

(1) 上野国新田荘は,新田義重が未墾地の開発を進め,既墾地とあわせて中央貴族に寄進して成立した。のち義重の子息は地頭職に任命された。

(2) 東寺は,承久の乱後に任命された地頭との間で,丹波国大山荘の年貢のことについて契約を結んだ。それによれば,地頭は東寺に,米142石,麦10石のほか,栗1石,また少量ながら干柿・くるみ・干蕨・つくしなどを納めることになっていた。

(3) 伯耆国東郷荘では,領家と地頭の間で土地の折半がなされ,領家分には地頭の支配は及ばなくなった。下の図は,このとき作成された絵図の略図である。


 

設問

A 東国と西国では,地頭がもっている荘園支配の権限にどのような違いがあったか。2行以内で説明しなさい。

B 西国では,荘園領主と地頭の間にどのような問題が生じたか。また,それをどのように解決したか。2行以内で説明しなさい。

C 荘園では,どのような産業が展開していたか。上の文章と図から読み取れることを2行以内で述べなさい。

復習して学ぶ地頭の荘園戦略 

(1)から読み込めること

新田義重が未墾地の開発を進め10世紀に財政悪化や対外的危機が去ると、中央集権体制が緩慢になってくる。中央の言いなりにならないものが出現してくる。各地で有力者が現れ、周辺の農民を従えて私的に田地を経営し始めた。

地頭職に任命された。地頭とは①荘官の一種で、現で支配にあたる長官()を指すものである。平氏政権でも➡②家人(臣従した武士)を私的に地頭に任命していました。その後、文治元年➡③1185年、源頼朝が④守護地頭の設置を後白河法皇から認められました。

 地頭の任務は、荘園の・公領の➡⑥下地管理や治安維持です。年貢を徴収して、荘園ならば➡⑦領家、公領ならば国司に納めます。任務に対する給与にあたるものとして、年貢のかからない免田の経営の権利などが与えられ、これを➡⑧地頭職(職とは、役職にともなう権益の意)と言います。

 さて、将軍と御家人とは、御恩と奉公による封建的主従関係で結ばれていました。すなわち⑨本領安堵新恩給与ですね。その見返りに軍役などを勤めました。所領をくださった将軍のために命をかけて戦う(一所懸命)というわけです。

 では、どうやって将軍は所領を保障したのか?24時間警備するわけにもいきません。

そこで出てくるのが地頭です。開発領主として荘官を務めてきた所領の地頭に、改めて➡御家人を任命しました。

地頭に任命されるメリットは?

現地での支配権にお墨付きがもらえる。また、朝廷公認だから地頭職も認められる。さあ、問題文に戻ろう!新田氏のような東国の武士は、先祖伝来の所領に地頭として任命されることで現地に根付いた支配権をガッチリ握ったわけです。このポイントは解答文に使いましょう。さあ、東国の地頭はわかったでしょう!西国はどうか?

 

西国の地頭は承久の乱後に任命された①新補地頭です。乱後は朝廷の監視のため京都には②六波羅探題が設置され、幕府は西国を中心とする上皇方の所領3,000カ所を没収して、戦功のあった御家人を新補地頭に任命して西国に送り込んだのです。しかし西国の地頭は、あくまでよそ者であって、現地の支配は思うようにはいきません。そこで幕府は③新補率法という新たな基準を定め、田畑11町につき1町の免田・段別5升の加徴米・山川からの収益の折半(鳥・魚・山菜など)といった、得分(収益としての取り分)を新補地頭に認めました。東国と比較すると少ないですね。雇われ店長ですから仕方ありません。解答は書けますね。承久の乱後に派遣された西国の地頭は得分しか認められなかった

設問

A 東国と西国では,地頭がもっている荘園支配の権限にどのような違いがあったか。2行以内で説明しなさい。

開発領主出身の東国の地頭は在地支配権を握ったが、承久の乱後に派遣された西国の地頭は得分が認められるのみだった。(58字)


駿台予備校の解答例

A 東国は幕府の支配領域で,本領も多く,強い権限を握った。西国は新恩の地頭が多く,本所の支配が尊重され,権限は抑制された。駿台


設問B

B 西国では,荘園領主と地頭の間にどのような問題が生じたか。また,それをどのように解決したか。2行以内で説明しなさい。

   彦根城からの琵琶湖
   彦根城からの琵琶湖

西国は、東国と比較して、京に存在する①荘園領主(領家・本家)の影響力が強い所でした。例えば、東寺の荘園など。そういうところに派遣されてきた新補地頭は不満がある。幕府が勝ったのに、なんで荘園領主の言いなりなのか!と。こうして新補地頭は、年貢納入を怠るなど自分が利益を得ようと侵略するわけです。そこで荘園領主は和解を提案するわけです。米や麦など一定額の年貢の納入を地頭に請け負わせ、荘園の管理を一任するという契約で、②地頭請と言います。もう口出ししないから、年貢だけは納めて下さい、というわけです。今もそうですが大きな神社や寺社は神聖な場所、いくら地頭でも逆らえないですね。それでもダメな場合、荘園の土地を荘園領主と地頭とで折半することになりました。これを③下地中分と言います。絵図を見てください。領家分・地頭分と線が引かれていますね。この線は、幕府が裁定をくだした結果の線なのです。

地頭の好きなようにやればいいのに!と思うかもしれません。でも④行政権を握る朝廷(公家勢力)と⑤軍事警察権を握る幕府(武家勢力)という⑥公武二元支配が鎌倉時代なのです。

幕府は、各国・荘園への⑦守護地頭の任命を通じてその支配力を浸透させていきました。⑨荘園公領制という基盤のうえに幕府は成り立っていたのです。それは公家勢力も同じでしょう。財源基盤は年貢収入でしたが、確保するには地頭の働きが欠かせませんでした。こうして幕府と朝廷は荘園公領制を維持するため協力が不可欠だったのです。教科書の史料、北条泰時消息文があります。「従来の律令や本所法を犯すものではありませんよ」と書いてあります。今春のセンター試験は史料が出ましたね。早稲田大でも出題されています。

さあ、解答です。年貢を未納するなど荘園を侵略する地頭に対し、本所(本家)は現地支配を一任する地頭請や、所領を折半する下地中分の契約を結んだ。(58字)

B地頭が年貢横領など非法を活発化し現地の支配権をめぐって荘園領主と対立したため,地頭請や下地中分で両者の調停が図られた。駿台

        晩秋の真如堂 京都
        晩秋の真如堂 京都

C 荘園では,どのような産業が展開していたか。上の文章と図から読み取れることを2行以内で述べなさい。

 

鎌倉時代には、麦を裏作とする①二毛作、二毛作を可能にするため乾田化が始まりました。泥んこの湿田では冬場に麦を作れません。肥料も、山林原野から刈り取ってきた草葉を、地中に敷き込んで腐らせて用いる②刈敷や、焼いて灰にして用いる③草木灰などの自給肥料が使用されました。史料文にあるように、栗・干柿・くるみ・干蕨・つくしの名も見られ、多角経営だったことがわかります。絵図にある馬野、馬の放牧が行われていたんですね。図の下には帆掛船が見えます。大湊宮と書かれています。船着場だったのでしょう。

解答

麦を裏作とする二毛作のほか、果実の栽培・山菜の採集・馬の放牧などが多角的に行われ、生産力の向上とともに海運も発達した。(59字)

C米と麦の二毛作,周辺の山野河海を利用した栗・柿などの採集,馬の飼育,漁業が営まれたほか,水上輸送業者も往来していた。駿台