5 飛鳥の朝廷2017


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東アジアの動向とヤマト政権の発展 34~35P

   大伴氏の後退対朝鮮政策の失敗(伽耶西部を百済に支配権を確立された)を非難された大伴金村が失脚。朝鮮半島での高句麗・新羅・百済等の位置関係を確認。

   物部氏と蘇我氏の対立

先進文化と仏教受容賛成➡蘇我稲目

👉欽明天皇のもと大臣に就任し勢力を伸ばした。財政を管轄し渡来系豪族と結託。

伝統重んじ仏教受容反対➡物部尾興

6世紀末、朝廷内の権力闘争ピークに。

592蘇我馬子物部守屋を滅ぼし崇峻天皇を暗殺(馬子の命を受けて暗殺したのが東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)

推古天皇  最初の女帝。飛鳥豊浦宮で即位。

 ★摂政:厩戸王・大臣蘇我馬子が国政担当

論点

厩戸王

用明天皇が出るとすれば厩戸王の父ぐらいしかない。

603冠位十二階 才能・功績に応じて個人に冠位を与える

冠の色で序列 大小に分ける

✌紫・青・赤・黄・白・黒 👉色は入試では出ないな!

 604憲法十七条 制定豪族への心得にすぎない!

☵史料研究 憲法十七条(日本書紀)
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤
{さから}ふること無きを、宗となせ。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。
三に曰く、詔を承りては必ず謹め。
十二に曰く、国司
{くにのみこともち}・国造・百姓{ひゃくせい}に斂{おさめと}ること勿れ。

十七に曰く、それ事は独断すべからず。

→「二に曰く」の三宝とは何か!仏・法・僧である。「十二に曰く」の条文の意味を簡潔の論述する問題が東大で出題。ここでの百姓は公民の意味である。

遣隋使

 『隋書倭国伝』には、600年に遣隋使が派遣されている記事があるが、日本書紀にはない。隋書倭国伝の多利思比狐は男性の名だとすれば厩戸王が正解。600年に遣隋使が派遣なら、小野妹子は最初の遣隋使ではない。607遣隋使小野妹子を派遣史料

煬帝は対等外交を無礼とする翌年、答礼使:裴世清と共に帰国

👉遣隋使に同行した2名は絶対!

留学生高向玄理・学問僧南淵請安が、小野妹子再渡航608

頻出事項!この2人、大化の改新時国博士になっている南淵請安は国博士になっていない。隋からの使者が裴世清であること確認。

614…第4回犬上御田鍬派遣👉絶対忘れてはいけない人物!ここが別れ目。

 ❹国史の編纂:『天皇紀』『国記』→現存せず

4孝徳天皇古代国家と宮都 早稲田への日本史3

 古人大兄皇子、謀反の企てありとして討たれる。

飛鳥板蓋宮から摂津国645難波長柄豊碕(ながらとよさき)へ遷都

☶史料研究7『隋書』倭国伝

開皇二十年、倭王姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏彌と号す。使を遣し闕に詣る。・・・・・・大業三年、その王多利思比孤使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」と。その[国書]にいわく、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす。恙なきや、云々」と。、これを覧て、悦ばず。[鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なるあらば、

またもって聞するなかれ」と。明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せ

問1.「大業3年」とは西暦★★★年である。607

問2.「多利思比孤」の有力な候補者は★★★と★★★である。

   (北海道大)推古天皇厩戸王(聖徳太子)

問3.「使者」とは★★★をさす。(法政)小野妹子

問4.「海西の菩薩天子」とは★をさす。(同志社)煬帝

問5.「日没する処の天子」とは★をさす。煬帝

問6.「帝」とは★★★をさす。(日本大)煬帝

問7.この史料の出典は★★★である。

      「隋書」倭国伝

       広隆寺半跏思惟像
       広隆寺半跏思惟像

飛鳥の朝廷と文化 36~37P

飛鳥文化…朝鮮半島の百済高句麗、中国の南北朝時代の文化的影響を多く受け西アジア・インド・ギリシアの文化ともつながる特徴を持った文化である。

蘇我馬子創建の飛鳥寺は法興寺とも呼ばれ、平城京に移って元興寺となった。

ここに住んだ恵慈は高句麗の僧で厩戸王の師でもある。


秦氏…広隆寺は創建が秦河勝。

氏寺の建立 氏寺こそ飛鳥仏教のキーワード

 飛鳥寺法興寺):蘇我馬子の発願

 法隆寺(斑鳩寺)・四天王寺

  →聖徳太子の発願

広隆寺秦河勝広隆寺の半跏思惟像と中宮寺の半跏思惟像の区別はお団子二つとウルトラセブンで決まり。


舒明天皇創建と伝えられる百済大寺は後に大官大寺となり、平城京造営後は大安寺となった。

法隆寺若草伽藍跡の発掘成果から、現存の金堂・五重塔などは→

焼失後に再建されたもの。

鞍作鳥により法隆寺金堂釈迦三尊が作成される。

飛鳥文化を代表する北魏様式の金銅像。


法隆寺玉虫厨子は宮殿部と須弥座の側面に仏教説話の絵画が描かれている。須弥座左側面の捨身飼虎図(すてみしとらず)がよく出る。天寿国繍帳は厩戸王の死後、妃の橘大郎女(たちばなおおいらつめ)が作らせた。天寿国は王が往生したとされる国。

百済の僧観勒➡暦法

高句麗の僧曇徴➡彩色・紙・墨 の技法を伝える    

7世紀半ば:蘇我蝦夷・入鹿が権力掌握

643 ✖山背大兄王自殺追い込まれる(厩戸王の子)

645 ✖乙巳の変(蝦夷・入鹿滅亡)皇極譲位し、弟・軽皇子が幸徳天皇として即位

 孝徳天皇 古人大兄皇子、謀反の企てありとして討たれる。

飛鳥板蓋宮から摂津国645難波長柄豊碕(ながらとよさき)へ遷都

大化の改新 38~39P

618 隋の滅亡・の成立唐帝国は律令法にもとづく強力な中央集権国家へと成長し、周辺諸国を軍事的に圧倒していきます。唐から帰国した留学生・学問僧は、その最新情報を日本にもたらしました。

論点

①年号と遷都:初の年号645を大化元年、東アジアの動乱に備えるため、都を飛鳥から難波に遷都。

②基本方針:改新の詔646を発し、公地公民制・班田収授法など中央集権国家建設の基本方針を明示。

 

1.空欄にそれぞれ適語を記せ。

訳 第一に、これまでの歴代の天皇が設定した子代の民や屯倉、とりわけ豪族の臣・連・伴造・国造・村首らがもっていた部曲や田荘を廃止しなさい。そのかわり、大夫以上には食封を冠位に応じて支給する。それ以下の下級官人と百姓には布帛を支給する。

第二に、都の制度を新設し、畿内・国司

 

720年成立の『日本書紀』には、646年に出された改新の詔の内容として4項目が記されている。これは701年に完成した大宝律令による文章の書き加えの部分がある。例えば第2条の地方行政区画について、「国・郡・里を置く」とされているが、この当時に郡はなく、郡にあたる行政区画はと記していたことが近年藤原京跡の発掘調査で発見された木簡から明らかになっている。これを郡評論争という。まあこの詔には新しい国家的支配を成立させようとする精神があるね。

 

律令国家への道 39~40P

白村江の戦い663 :日本は唐・新羅連合軍に大敗

この頃朝鮮半島では、唐と新羅の連合軍によって、百済が滅ぼされてしまった660)。百済がなくなると朝鮮半島における足場がなくなると考えた日本は、百済を復興させるために軍隊を派遣したが、唐・新羅の連合軍に大敗北をきっする663白村江の戦い)。この戦いのあと、唐や新羅がいつ日本に攻めてくるかわからないので、中大兄皇子は急遽国防の強化に全力をあげる。このとき、北九州に水城・防人を設置したことがセンターではポイントになる

664 新羅侵攻に備え、大宰府の北に堤として水城を作り、対馬・壱岐に(=のろし)を置き、防人の制を設け筑紫に置く。

さらに翌年には大宰府北方の山上に朝鮮式山城大野を築く。大宰府の南側に基肄(きい)を築く。

667     中大兄皇子、飛鳥から近江大津宮へ遷都し、正式に即位する。

白村江の戦いで、日本はやっと「日本」になる。

つまり、日本は白村江の敗戦後に天智・天武の時代を迎えて、記紀の編纂や律令制の確立に向かって行く、このとき最も密接

な日朝関係を最初に築いたのが倭国と伽耶の諸国だったのである。

天智天皇

 斉明天皇が661年に没して、天智天皇が668年に即位するまで天皇は空位であった。この間は中大兄皇子の称制であった。

天智天皇の庚午年籍は持統天皇期の庚寅年籍との区別が大事。
天智没で→672壬申の乱

 ○大海人皇子 VS ✖大友皇子 

大海人皇子が美濃に移り東国豪族たちの軍事動員に成功してことを押さえておきたい。

天武天皇

飛鳥浄御原宮で即位した。この時期の政治を皇親政治と呼ぶ。天皇の称号が開始された。伊勢神宮が国家的な祭祀の対象となった。諸豪族の身分秩序を天皇中心に再編成するため「八色の姓」の最上位が真人は覚えておきたい。

 富本銭の鋳造では飛鳥池から33枚が発見された。同じく池から天皇号が書かれた木簡も。

持統天皇

 飛鳥浄御原令施行され庚寅年籍を作成し民衆の把握に努めた。国史の編纂開始→『古事記』『日本書紀』の完成。

藤原京…三代の天皇の都であり、三代を答えさせるのが早稲田大で出た。持統・文武・元明だね。宮の周囲に条坊制を持つ京がもうけられた。