40 農業・林業・漁業・手工業


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受験の極意 農業農民史Part

新田開発 幕府や諸藩は、経済の安定や年貢の増収を目的に、農業振興策を進めた。大きなものが新田開発で、田畑の耕作を妨げないことを条件に開拓された。幕府の代官が開発可能な土地を見つけて開拓する代官見立新田、藩の主導で開発を行なった藩営新田、商人が資金を出して開発する町人請負新田などがある。特に町人請負新田は規模が大きく、越後紫雲寺潟新田が1万7000石、摂津川口新田が1万5000石である。

技術の発達

耕地の拡大と並んで、農業技術の進歩もめざましかった。農業経営は、狭い耕地に人力を集約的に投下する方法で行なわれた。それに応じて、農具も改良・発明された。深耕具は、備中鍬が登場し、近世中期には全国に普及した。脱穀具は、千歯扱が登場した。選別具は、17世紀後半に考案された千石 、中国から伝来した唐箕が普及した。揚水機は、17世紀半ばに踏車が考案され、竜骨車やなげつるべに代わって普及した。

肥料

肥料も、厩肥・堆肥など自給肥料の他に、都市周辺部では下肥{しもごえ:人の糞尿を肥料にしたもの}が使われた。また、金銭を払って買う肥料も普及した。金肥である。金肥には、油粕〆粕干鰯がある。油粕は、油菜の菜種や綿花の種子などから油をしぼった粕である。〆粕は、鰯や鰊などの魚や胡麻・豆などから油をしぼり取った残り粕である。干鰯は、鰯や鰊を日干しにしたもので、速効性肥料として使われた。
農書
 農書が数多く著わされ、農業技術と生産力の向上に大きな役割を果たした。宮崎安貞の『農業全書』は、日本初の体系的農学書で、見聞と体験に基づく農業技術を記した。大蔵永常の『農具便利論』は、農具を図示して用法を記した。また、『広益国産考』は、作物の栽培法を述べ、商品作物の栽培と加工による農家の利益と国益を論じた。

受験の極意 農業農民史Part

農業生産力が高まった結果、農民が年貢米と来年の籾殻を除いて余った米を年で売るようになった。そして、生活にゆとりが出た農民は商品作物を栽培するようになり、生産物を売って利益を得るようになった
 商品作物は、商品として売るために栽培された農作物で、四木三草、綿花(木綿)・たばこ・野菜・甘蔗などが主なものである。四木三草は幕府や諸藩が重視した民間必需の商品作物で、
四木三草紅花である。桑・楮・麻は全国的に栽培され、漆は会津、茶は山城や駿河、藍は阿波、紅花は出羽が特に生産が多かった。また、各地に特産品も登場した。備後藺草、甲斐のぶどう、紀伊のみかん、薩摩の黒砂糖、越前の奉書紙などである。
詳しく述べると…
 
木綿は、戦国時代に衣料として庶民に普及した。ただ、実が付くまでに3回肥料を与えなければならないため、肥料の購入費が高くなる上、収穫が不安定だった。{い}は、江戸初期から庶民の畳志向に合わせて需要が拡大した。は、養蚕に使われた。漆は、実が蝋{ろう}の原料、汁が漆器を塗るのに使われた。は、山野に自生していたが、紙の生産が増えるにつれて栽培されるようになった。は、木綿が普及するまでは衣服の主流で、糸・網・綱・蚊帳などに利用された。紅花は、花から取れる紅が京染などの染料や化粧品、鎮痛剤、種から油が取れる。需要地は京都で、女性は競って最上紅花を購入したという。
 
は、草や茎を原料に染料を取る。藍色を欧米ではジャパン・ブルー、ヒロシゲ・ブルーと呼んでいる。豪華な多色刷りが奢侈であるとして使えなくなると、浮世絵師らは藍色の濃淡を巧みに使って表現した。菜種(油菜)は、当初野菜として伝わったが、戦国時代頃から油料作物として利用された。水田の裏作に栽培され、換金性も高く、利用頻度の高い作物である。種子から取れる油は行灯や整髪油に使われ、搾った後の油粕は綿花などの肥料として販売された。

1702 赤穂事件 

殿(浅野長矩)の御乱心のおかげで家臣が大迷惑を被って、挙げ句の果てに地元では名君の誉れ高く、農民たちから慕われていた吉良上野介を惨殺した赤穂事件がおこったのも綱吉の時だった。
 幕府内部には、幕府をないがしろにする不当行為とする意見、義にかなったものとする意見があった。討ち入りを果たした赤穂浪士は、4大名家に預けられ裁きを待った。1703年2月、46名が切腹を命じられ、即日執行され、遺体は泉岳寺に葬られた。1人少ないのは、寺坂吉右衛門が討ち入りの成功を伝えるため赤穂に向かっていたためである。この判決には不満を持つ江戸市民も多かったが、武士としては名誉な死であり、喜ぶ者も多かった。赤穂事件は、曽我兄弟の仇討(鎌倉時代)、伊賀越仇討(163411月)と並ぶ日本三大仇討ちに数えられている。

1703 近松門左衛門人形浄瑠璃作品=『曽根崎心中』大坂竹本座で初演。

1708 イタリア人宣教師シドッチ、屋久島に密入国し、翌年江戸で新井白石に尋問を受ける。この時の尋問をもとに新井白石は西洋地理の書采覧異言』、西洋研究書西洋紀聞』を著した。

論述研究 江戸幕府の支配体制とその変化 東大 2013年 設問番号 第3問

次の⑴〜⑷の文章を読んで,下記の設問A・Bに答えなさい。

 江戸幕府は,1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後,伏見城に諸大名を集めて武家諸法度を読み聞かせた。その第1条は,大名のあるべき姿について,「文武弓馬の道,専ら相嗜むべき事」と述べていた。
 ついで幕府は,禁中並公家諸法度を天皇と公家たちに示した。その第1条は,天皇のあるべき姿について,「第一御学問なり」と述べ,皇帝による政治のあり方を説く中国唐代の書物や,平安時代の天皇が後継者に与えた訓戒書に言及している。
 1651年,新将軍のもとで末期養子の禁が緩和され,1663年には殉死が禁止された。これらの項目は1683年の武家諸法度に条文として加えられた。
 1683年の武家諸法度では,第1条は「文武忠孝を励まし,礼儀を正すべき事」と改められた。

 

設問
A 
の時期に,幕府は,支配体制の中で大名と天皇にそれぞれどのような役割を求めたと考えられるか。2行以内で述べなさい。

 

 

 

大名には武芸を鍛練して軍事の職能を果たすこと,天皇には中国・日本を問わず古来の先例を学んで儀礼に従事することを求めた。(60字)

 


B 1683年に幕府が武家諸法度を改めたのは,武士の置かれた社会状況のどのような変化によると考えられるか。3行以内で述べなさい。

 

戦乱が終焉するなかで,主従関係が属人的な性格を弱め,従者が主家に代々奉公する関係へと変化したうえ,武士には百姓経営の安定など統治を担う為政者としての役割が求められるようになった。(90字)