5 鎌倉仏教


5鎌倉仏教

 呪術的な要素の強い奈良仏教は、仏教が本来持っていた人々を救うという役割を果たせなかったといえる。だからこそ、仏教界の堕落を食い止めなくてはと立ち上がった人々が出てくる。

浄土宗

 末法の世からの脱却を目指して、法然は、仏教を聖道門と易行門とに区別し、教えしかなく修行や悟りのない末法の世においては、修行の必要はなく、ただひたすら念仏を唱え続ける(専修念仏)という易行門を重視した。彼は「南無阿弥陀仏」と仏の名を唱える念仏によって、阿弥陀仏の力(他力)によって浄土へ向かうことができると説いた。

浄土真宗

親鸞は師匠である法然の教えを強めて、絶対他力を説いた。法然の場合、念仏を唱えることだけは自力であるが、親鸞の場合、念仏を唱えることも阿弥陀仏のはからいだという。親鸞は、この世のすべての現象を阿弥陀仏のはからいだとする(自然法爾)。また親鸞は、凡夫という自覚を持つ悪人こそ阿弥陀仏の救いを受けるにふさわしいという悪人正機説を唱えた。

悪人こそ救われる。善人でなく何故に悪人こそ救われるのか?悪人は自力で行うことのできない弱い存在だ。だから仏の力に頼る願いは人一倍強い。他力に頼るとはそういうことだ。

学生時代、日本仏教史の講義を受けた際に印象のある言葉がある。苦しい時の神頼みこそ、親鸞の真骨頂。人間は弱い存在なのだ。親鸞が日本人に人気なのがわかる気がする。

時宗

 一遍は「南無阿弥陀仏」こそ、真の実在であるとし、全国を遊行して念仏を唱えながら踊る踊り念仏を広めた。いいね!だな。

 一遍は「捨聖」と呼ばれた。「聖」とは、自分の寺を持たない僧のことを言う。寺に行き僧の話を聞ける人はまだいい。本当に困っている人は寺にも行けない。寝たきり老人は悲しい。だから一遍は本当に困っている人のところに赴き、絶望に貧する人の前で踊りながら念仏を唱えた。あっぱれだ!一遍のいるところに極楽がある、そう人々は考えた。

法華宗

 きました日蓮英雄です。公明党=創価学会は日蓮が教祖です。日蓮は末法の世を国家存亡の危機ととらえ、国家安定のための教えを説いた『立正安国論』を著した。『法華経』を第一の教えと考え、『法華経』の題目「南無妙法蓮華経」を唱えることによって救われると説いた。

 彼は、他宗を批判論駁し、法華宗に改宗させようとした。四箇格言といって、念仏無間(浄土宗は無間地獄に落ちる教えを説いている)禅天魔(禅宗は悪魔の教えを説いている)真言亡国(真言宗は国を滅ぼす教えを説いている)律国賊(律宗は国に反逆を加える教えを説いている)と述べた。ただし、ここで日蓮が天台宗だけは批判しなかったことは押さえておこう。最澄の天台宗は、日蓮と同じ『法華経』を中心経典としているからね。

 日蓮は、『法華経』に基づく政治改革と仏国土の建設によって、当時の対外的危機(元寇)の克服(王仏冥合)を主張した。

また、人事を尽くして天命を待つ自他共力の日蓮の世界だ。

禅宗

 鎌倉仏教すべてが末法思想を前提としているわけだはない。中には、末法思想を否定して、修行すれば悟りを得ることができると考える宗派もある。それが禅宗だ!大きく栄西の開いた臨済宗と、道元の開いた曹洞宗がある。彼らは禅をくむという修行を行い、悟りを得ようとするので、末法思想を否定している。ただし2つの宗派は同じ禅宗でありながら、内容はかなり対照的なので整理したい。

臨済宗

 栄西の開いた臨済宗では、看話禅という禅をくむ。これは師から与えられる公案と呼ばれる問題を検討して、自己の心性をみる座禅だ。「生きるとは何ぞや!」師から答えのない問題を与えられる。それを禅を組みながら、その答えや師がなぜそんな公案を下さったのかを考える。「一休さん」というテレビ漫画をご存知か?あのアニメで、一休さんは和尚さんや将軍様(足利義満)から無理難題を言われて、禅を組み考える。そしてとんちで答える。一休さんは臨済宗の坊さんだ。

 臨済宗はとても政治と深く結びついていた。この点も押さえておきたい。鎌倉時代から、臨済宗は、北条政子や源頼朝ら武士の上層部に支持を得ていた

 最近、上野の国立博物館で栄西を見てきた。栄西の正しい読みは「ようさい」である。

 

曹洞宗

 道元が開いた曹洞宗では、黙照禅という禅をくむ。こちらは公案を重視せず、一切の思慮分別を滅し、自己の本性の正しさを表す禅だ。心を無にしてただひたすら禅をくむ。このことを只管打座という。ただ座れ!の世界。

 また、元は、座禅を悟りを得るための手段とは考えていない点にも注意したい。道元は座禅をくむことはそれ自体悟りの過程でもあると考えている(修証一等)。禅をくむことによって悟りを得るのではなく、禅はそれ自体悟りなんだという。

 また、道元は、身体も精神も一切の執着を離れ、悟りの境地に入る身心脱落を説いた。精神一到何ごとか成らざらんの心境だ。臨済宗と違って、曹洞宗は政治との結びつきを極度に避けたことを押さえておきたい。曹洞宗の総本山が福井県の山奥深い永平寺にあることは、政治を避けたことを物語る。

ことわざで言えば、精神一到何事か成らざらんの世界だ。