2 開国の影響


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NO2 開国の影響

A日米修好通商条約1954)→55貿易開始

〔内容〕

1.神奈川(実際は横浜)・長崎・新潟・兵庫(実際は神戸)の開港

    *1859. 神奈川 ・長崎 1867.兵庫 1868.新潟の開港

  江戸・大坂の開市

2.自由貿易の承認

3.協定関税制 の承認(関税自主権の喪失)

  *貿易章程(別冊)で輸入関税は0%・5%・20%・35%(一般品目は20%)輸出関税は5%

日本は関税の税率を自国で決定する権利をアメリカによって奪われてしまったのです。協定関税制とは、日本はアメリカと合意して協定を結ばなければ、日本自身の関税率を決められないのです。20%の従価税の時ならば、外国から輸入される1㌔gで100円の物品Xに対して20円の関税を課すことができました。

4.貨幣の同種同量の交換

  *外国の金貨と日本の金貨、外国の銀貨と日本の銀貨は交換可能

これは、外国の銀貨と日本の銀貨は、銀の量が同量ならば交換可能、外国の金貨と日本の金貨は、金の量が同量ならば交換可能という規定です。

5.領事裁判権治外法権)の承認

   在留外国人の裁判をその本国の領事がその本国の法に基づいて行う権利

例えば今アメリカ人が教室に入ってきて銃を乱射し、生徒たちを撃ち殺したとします。当然、そのアメリカ人は、アメリカ大使館でアメリカ大使が裁判長になって、アメリカの法律で裁かれるのです。当然、日本人から見れば不当な判決が出るでしょう!なぜ、そうしたことが生じたのか?それは、欧米人が日本人を野蛮人とみなして差別していたからです。

6.居留地の設定

◎批准書交換

  主席全権新見正興(外国奉行)を米に派遣(米艦ポーハタン号乗船)
  幕府軍艦咸臨丸が随行し、日本人初の太平洋横断

  艦長:勝海舟  司令官:木村善毅

→福沢諭吉が同行、通訳は中浜(ジョン)万次郎👉ジョン万次郎は後に長崎伝習所で坂本龍馬と出会うことになる。

 


史料研究 日米修好通商条約


史料研究 安政の五か国条約  

日米修好通商条約1858締結(岩瀬忠震・井上清直

第一条 向後日本大君と、亜米利加合衆国と世々親睦なるへし……

第三条 [ 下田 ][ 箱館 ]の港の外、次にいふ所の場所を左の期限より開くへし

 神奈川 長崎 [ 新潟 ] [ 兵庫 ]

 [ 神奈川 ]港を開く後六箇月にして下田港は閉鎖すへし。……此箇条の内に載たる各地は、亜米利加人に居留を許すへし……

第四条 総て国地に輸入輸出の品々(ア)別冊の通、日本役所へ(イ)運上 を納むへし

第五条 外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すへし……

第六条 日本人に対し法を犯せる亜米利加人は、[亜米利加]コンシュル裁断所にて吟味の上、[亜米利加]の法度を以て罰すへし。亜米利加人へ対し法を犯したる日本人は、[日本]役人糺の上、[日本]法度を以て罰すへし……

Q 別冊とは何か 貿易章程

Q 運上とは何か 関税

Q 五カ国とはどこか アオイフロ 和親はアオイロ

貿易の開始


B.貿易の開始

1859.5.28幕府、神奈川( 横浜 )・長崎・箱館3港を6月から開港→下田閉鎖

  →1860輸出の86% 輸入の71%が主要相手国👉横浜とイギリスが出る!

                           米は南北戦争で後退

1867.兵庫開港勅許(実際には神戸) 1868.新潟開港

  

◎貿易の性格 後進国(植民地)型貿易

   →原料・半製品・食料品などを輸出して製品を輸入

C.影響

1.産業への影響

○製糸業(繭から生糸を生産する産業)
  →生糸の大量輸出←ヨーロッパで微粒子病が大流行(養蚕業大打撃)

           パスツールが微粒子病を駆逐した後も安価な日本生糸の輸出伸張

 製糸業と養蚕業の分化

     →一部ではマニュファクチュア(工場制手工業)経営も発展

 →1884年から新興絹織物国である米が最大の輸出先

  But.日本生糸は当初、伊・仏の生糸に比べて品質が劣り、絹織物の横糸にのみ使用

  明治政府は生糸改所を江戸に設置(1868)粗悪品を規制するため各産地に生糸改会社を設け(1873)、1896年には生糸輸出の拡大に伴い、農商務省下に横浜・神戸に生糸検査所をつくり、品質検査などを行った。この結果、1900年代に経糸用の優良生糸も生産され、1909年に中国の生糸生産量を上回り、世界最大の生糸輸出国となった。


○絹織物業(絹織物=経糸・緯糸に絹糸を用いて織りあげた織物の総称)

   生糸の大量輸出→原料不足と生糸価格の上昇

           桐生・西陣などの機業地は一時的に打撃を受ける

○綿作・綿織物業

 *紡績業(綿花から綿糸を生産する産業)

  機械制大工場で大量生産された安価な英の綿織物輸入により国内の綿作・綿織物業は

  大打撃を受ける。→cf)尾張の綿織物業の衰退輸入綿糸利用で再生(明治期)

金銀比価問題

  →日本 金1:銀5  欧米 金1:銀15 *日本の金の価値は欧米の1/3
 金貨流出の原因は、外国に比べ、日本は銀に対しての金の価値が低かったからである。銀は新大陸で銀山が発見されたことにより、大量にヨーロッパに流入し、価値が暴落していた。
・幕末の段階で、アジアではメキシコ銀が基軸通貨となっていた。外国人は銀を持ってきて生糸を買ってゆく。この時、同質同量の日本の銀に替えることになる。1㌦=3分。これで生糸を買うよりも、金を買って(銀と金を交換して)外国に持ちだした方が利益が大きかった。100㌦は300分の銀と交換でき、これを金と替えると75両になる。この金貨を外国に持ち出せば300㌦の銀と交換できた。幕末には、一説に50万両、300億円分の金貨が流出している。

幕府の対応

 →1860.4.10万延小判の運用開始

          金の含有量 天保小判の1/3 金流出の防止をはかる

○物価騰貴
a.輸出超過(出超)→国内では、消費物資の品不足により物価高騰

b.悪貨鋳造(万延小判)→貨幣価値が大幅に下落し物価高騰

・貿易の開始は物価の急騰をもたらした。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍である。生糸一包みは200$から800$へと4倍。蚕卵紙は1枚銀2枚が3040枚となり、20倍になっている。

五品江戸廻送令1860.3.19

 ・商品流通の混乱→輸出品は産地から開港場に直送(大半が横浜)

 ・従来の江戸問屋を中心とする特権的な流通機構(都市で品物を売るのは問屋商人だけ)は崩壊

 ・雑穀水油呉服生糸の江戸経由を命ずる。五品目を記憶せよ。

             茶が入ってないことに注意!

 ・在郷商人や外国の反発で不成功

○改税約書(1866.5. 13

cf)兵庫開港の遅れ改税約書(1866)=日本の市場化の進行(関税5%)

・最初は儲かっていた外国との貿易も、1866年を境に赤字になってゆく。兵庫の開港が遅れた代償として、列強は改税約書を押し付けてくる。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかける。これで条約勅許が出されることになった。

 

→貿易の開始は、幕府の滅亡を促進することになった。封建経済の国がいきなり自由貿易をするとどうなるかの見本である。貿易開始から幕府滅亡までは10年もかかっていない。    


過去問研究 江戸幕府の貿易 早稲田(商)2015


過去問研究11 江戸幕末期の貿易 早稲田(商)2015

 1854年、日米和親条約が結ばれ、この条約では日本からアメリカに片務的な〔 イ 〕が付与された。また、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約が締結された。その後、1858年に日米修好通商条約が結ばれ、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が調印された。開港に伴い、ロ貿易が開始されたが、ハ国内経済には混乱も生じた。「江戸協約」ともよばれる〔 二 〕では、貿易取引が諸外国に有利になる条件へと変更された。

A 空欄イに該当する語句を漢字5字で記せ。

正解→。最恵国待遇

B 下線部ロについて、幕末期の貿易の説明として誤っているものを1つ選びなさい。

 1.貿易相手国との協定にもとづいて関税率が決定された。

 2.日本の主要な輸出品として、茶・蚕卵紙・海産物などがあげられる。

 3.貿易取引額は横浜港が最も多かった。

 4.アメリカとの貿易取引が最も多かった。✖︎アメリカは南北戦争中。イギリスが最も多い。

 5.日本の主要な輸入品として、毛織物・軍需品などがあげられる。

正解→誤文は4

C 下線部ハについて、幕末期の経済の説明として正しいものを1つ選びなさい。

 1.開港当初から継続的に輸入が輸出を超過し、国内の品不足から物価が上昇した。

 2.安価な綿織物の輸入によって国内の綿作は打撃を受けた。

 3.雑穀・茶・水油・呉服・生糸の流通が統制の対象とされた。

 4.日本では金1に対して銀15、外国では金1に対して銀5の金銀比価であった。

 5.万延貨幣改鋳が実施され、物価の抑制に成功した。

正解→5


高山彦九郎の像


    高山彦九郎
    高山彦九郎

三条大橋のたもとから御所を見る高山彦九郎 彼がはじめて京都に足をふみ入れたとき、御所の築地塀がすっかり倒れていて、内裏の建物が見えたのである。天皇崇拝家の彼は、思わずそこに座り込んでしまった。情けなくて、はらはらと落涙したとも言われている。彼の顔は、いくぶんうつむき加減になっている。流れた涙を拭い、キッと決意を固めた瞬間を造形しているのだろう。こんな情けないありさまは、この自分が必ず回復する、という決意である。              

 『京都の謎』奈良本辰也著