太平記・朱子学・岡山藩の庶民教育 にしの一橋大ブログより


一橋大教授、若尾政希教授の専門分野を意識した予想問題である。

次の文章を読んで下記の問いに答えなさい。(問1から問4すべてで400字以内)

室町時代に成立した太平記は、人々のあいだに広く普及し、幕末期にいたるまで大きな影響を与えた。作中では朱子学の思想についても随所に触れられており、江戸時代の朱子学普及に大きく影響した。朱子学は幕府の公式学問とされ、権力とも結びついて、幕府や諸藩に広まっていった。また、庶民のあいだにも広く普及しており、庶民の教育にも一定の役割を果たしたと考えられる。幕末期になると、当初は幕藩体制を支えるための学問であった朱子学が、逆に尊王論の根拠となるまで発展していた。朱子学は、討幕にも大きな影響を持ったことになる。

1 『太平記』はどのような物語であるかを説明するとともに、これがどのような形で広められていったのか、答えなさい。太平記は戦乱の社会を南朝に同情しながら戦記物語で、太平記読みによって広く民衆になかに普及していった。教科書を利用するとこれが答えである。

閑話休題 故中世史家・網野善彦氏の著書『異形の王権』は、後醍醐天皇の建武の新政の名著である。後醍醐のすごさは楠正成らの悪党をはじめとする漂白民や商工業者を組織して、農業基盤に依拠する武家勢力を打倒する発想の大胆さと、公家社会の先例を無視し、自身の意のままに人事や政治を刷新する身勝手さ=破天荒にあり、これは歴代天皇の中でも異形に属する。特に南朝の正統性が江戸時代太平記読みによって語り継がれ、吉田松陰そして明治新政府から太平洋戦争終結まで脈々とその道徳が継続していったことの重大さ、は考えなくてはいけないだろう!
 
 
2 朱子学が幕府の公式の学問となった過程について、代表的な儒学者の名前をあげて説明しなさい。室町時代、京都五山の第二位・相国寺の僧である藤原惺窩である。かの歌人藤原定家の直系である。朱子学「、全世界には、正しいと最初から決まっている絶対のルールがある。これを『』という。あらゆる上下関係も同じ。だから身分が下の者が上の者に従うのがその理に即したことである」は、この絶対ルールを学問の根幹にした。この朱子学を導入したのが藤原惺窩である。

朱子学者藤原惺窩の門人林羅山は、家康・秀忠・家光・家綱に仕え「天があって地があるように、身分の上下も同じ理屈」と、徳川家支配の論理に置き換え徳川支配を理論でそなえた。と説明したい。


 
 
3 江戸時代前期には、儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかる藩主も現れるが、このことに関して、水戸藩と岡山藩における藩政について説明しなさい。ただし、岡山藩については、庶民の教育に対する政策についても説明すること。岡山藩の池田光政は、40年間にわたって藩政を主導し、新田開発などを行って、農民の経営を安定させた。また熊沢蕃山を用い、藩学の花畠教場や郷学の閑谷学校を開設した。その一方で、儒学の立場からきびしい宗教統制を行った。

 水戸藩は朱子学を軸に国学・神道を統合し、天皇尊崇と封建的秩序の確立を説いた。水戸藩の前期は、徳をもっておさめる王者は力をもって支配する覇者にまさるという朱子学の大義名分論からの尊王斥覇の考え方が主流で、後期には徳川斉昭を中心に藤田幽谷とその子の東湖、幽谷に学んだ会沢安らの学者が尊王攘夷論を説き、幕末の思想に影響を与えた。

 山川の教科書には、岡山藩の記述は若干少ないので、三省堂を利用した。以上をまとめるとよい。
  
  
4 尊王論の根拠となった朱子学の一派について、尊王論の根拠となった理由とともに説明しなさい。垂加神道ですね。山崎闇斎は、江戸幕府の手足となって働く林羅山を”博学をひけらかす教養主義者”と強く非難した。