28 高度経済成長の終焉・ひずみ


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高度経済成長

最初の好景気が195557年の(神武景気1956年には造船量で(イギリス)を抜き世界一位となった。また、1956年度に(経済企画庁)は、年に1回発行する『経済白書』のなかに

もはや戦後ではない」と記した。経済企画庁とこの年の白書及び言葉はよく出題されるので絶対に記憶せよ。各景気の名を整理しておこう。195861年(岩戸)景気、196364年(オリンピック)景気、196670年(いざなぎ)景気等は必須。東京オリンピックを控えて景気は上向くだろう。しかし反動が怖い。

高度経済成長

日本は(1955)〜(1973)年の実質経済成長率がほとんどの年度で5%を超え、(10)%を超えた年もあった。池田勇人の所得倍増計画は本物だった。1968年には国民総生産【GNP】がアメリカに次いで資本主義国第(2)位となった。「投資が投資を呼ぶ」といわれた時代であったことが出ている。こうした背景として、海外の技術を積極的に取り入れた(技術革新)、エネルギーの(石炭)から(石油)への転換はエネルギー革命と呼ばれ、(終身雇用)と(年功序列型賃金)等の日本型経営の定着等による生産性の向上が挙げられ、トヨタ自動車の(かんばん)方式が取り上げられている。松下電器やトヨタ自動車が活躍。エネルギー転換としては、195585年までのエネルギー自給の変遷と、1955年成立の(原子力基本法)が出題されている。東日本大震災以後、原子力関連は注意。この転換の過程で、三井鉱山三井炭鉱で激しい労働争議【三池争議】が起こったことが取り上げられている。余談だが三池工業高校が甲子園で優勝したのも、この頃だ。炭鉱の街が湧いた。今は風前の灯だが。1963年公布の(中小企業基本法)も出題された。また、経済成長のなかで(春闘)方式が定着し、労働者の賃金が上昇したことも出た。

食糧管理制度

食糧管理法は戦後の法律ではなく、戦時統制のための法律であった。
1939年の(米穀配給統制法)が前身で、1942年食糧管理法となり、戦後の食糧難時代に役割を果たした。しかし、高度経済成長期には米の消費が低迷し、米が生産過剰に陥って食糧管理特別会計が深刻な赤字となった。このため、1970年から米の(減反)政策は始められた。1961年、農業基本法が制定され、()(果樹)(畜産)の選択的拡大路線が打ち出された。しかし、果樹・畜産の生産者価格は低迷し、全体として(農業人口)と(農地面積)の減少をもたらした。さんちゃん農業の意味➡【かあちゃん、ばあちゃん、じいちゃん、お父さんは出稼ぎ又はサラリーマン。】米の問題は、政治家の選挙区と密接に関連している。「米価を上げるので私に一票を!」この発言で農民はある政治家に投票する。消費者が買うコメより生産者米価の方が高い逆ザヤ現象が続いたのだ。

為替と資本の自由化

1963年に(GATT11条国、1964年に(IMF8条国となった。このことはよく出題される。11条国とは(国際収支上の理由から輸入制限ができない国)となり、8条国とは、(貿易収支や資本移動に対する制限が禁止される国)となった。また、1964年に、(経済協力開発機構)【OECD】に加盟し、(資本の自由化)が義務付けられたこともよく出る。こうした状況下で、国際競争に備えて、企業の大型合併と巨大企業集団の形成、日本の労使関係の形成【(終身)雇用制度、(年功序列)賃金体系、(企業)内労働組合】が図られたことを論述する問題が出た。(三井)(三菱)(住友)(富士)(三和)(第一勧銀)の六大企業集団が形成されたことが出た。銀行再編でかなり変化したので現在の銀行名の方が大事かもしれない。

大衆消費社会の誕生

産業と人口の集中が激しくなり、そのなかで形成された。これに関連して1962年(新産業都市建設促進法)が制定されたことが出た。一方、農村部では農業人口の減少と過疎化が進んだ。1970年には、農業人口が(2)割を割り込んだことが出た。また、都市部での(核家族化)が進んだ。

耐久消費財の普及

1950年代から普及した(白黒テレビ)(電気洗濯機)(電気冷蔵庫)は三種の神器と呼ばれ、1960年代から普及した(自動車)(カラーテレビ)(クーラー)は新三種の神器【または3C】といわれた。関連のある 1953)年のテレビ放送開始が出た。こうしたなかで(中流意識)が高まり高校や大学・短大への進学率が高まった。私のころは中学卒業と同時に東京へと向かう集団就職列車があってクラスの5分の1ぐらいは、東京へと向かったのだ。

マス=メディアの発達

歴史小説の松本清張、(司馬遼太郎)、【坂本龍馬と織田信長人気は、司馬さんの小説が生んだ】、純文学の(大江健三郎)【われらの時代(大学時代大江の本を読んで授業に出なかった)】(高橋和巳)の(『邪宗門』)が出た。(朝永振一郎)(江崎玲於奈)のノーベル賞受賞が出た。1970年代、高橋和巳の本を読んでいることがステータスだった。

高度成長のひずみ

1967年に制定された(公害対策基本法)、1970年の(環境庁)設置、四大公害訴訟は、公害名と原因物質・地域が出る。(水俣病)【熊本県】原因物質(有機水銀)。

(イタイイタイ病)【カドミウム・富山県】(新潟水俣病)

1993年には公害対策基本法に代わって(環境基本法)が制定された。

石牟礼美智子の『苦海浄土』は水俣病を扱った小説である。

東京大学の学生運動(東大闘争)や(美濃部亮吉)の東京都知事当選まで出ている。

 

経済大国への道

1971.8.15ドルの交換停止をアメリカ大統領(ニクソン)が発表。

「金の窓を閉め〔ドルと金の交換を停止し〕大部分の輸入品に10%の課徴金を課すことに合意した」

1970年初期からアメリカは貿易赤字になります。赤字の元凶は日本、赤字が増えれば米国にある金がどんどん減少していきます。1971年対日貿易は32億ドルの赤字。

1971.12.18ドル-ショック→1㌦= 308円への円切り上げ 輸出に打撃(円高不況)

1944年以降、経済大国アメリカのドルを基準(金と交換可能)とし、各国は ドルとの為替相場を固定する体制(ブレトン=ウッズ体制だったが(ex1ドル=360)、アメリカ経済が悪化(インフレなど)してこれを維持できなくなった。ドルの価値下落、株価の暴落など経済の混乱

1971.ドルの切り下げ=各国通貨の切り上げ、これをスミソニアン体制という。

1973.各国が変動為替相場制に移行

外国為替相場の変動を市場の需給にまかせておく制度。つまり、日本の輸出が伸びれば円が上がり、輸出が減少すれば円が下がることになる。もちろん投機的に日本の輸出が伸びると思えば、多数が円を買うのでまた上がることも起こる。

1ドル=360円は経済の実態よりはるかに円安で日本の輸出には有利な状態だった。しかし、変動相場制へ移行すれば、日本経済の実態にともなって、徐々に円の価値は上がっていきます。徐々に円が上がっていくということは、日本商品がアメリカなど外国でどんどん割高になっていき、輸出が不利になっていくということです。これで、経済の実態よりも非常に円安だったという固定相場のうまみがなくなり、輸出中心の日本経済は円高不況になっていきます。

ニクソンの報復

日本の製品は約12%高くなる。また尖閣諸島に対する米国の態度も変化、ニクソンと毛沢東との間で何かが…。ニクソンと佐藤との関係悪化。

アメリカの方針転換

ニクソン大統領の訪中(中華人民共和国<東側>訪問)を発表1971 ※翌年実現

 →国連が中華人民共和国の加盟を認め、中華民国(台湾)は脱退。        

べトナム戦争和平協定 1973 →べトナム社会主義共和国成立1975

→東西対立による戦争は終わるが、紛争はその後も頻発(背景に冷戦)

田中角栄内閣1972.71974.12 与党:自由民主党

大好きな政治家である。

「戦後の復興と繁栄は、農山村漁村の犠牲の上に成り立つものであってはならない。大都市と地方が共存共栄できる均衡のとれた国土の再編成、再利用を実現すべきだ」

外交 日中共同声明( 1972.9)…日中国交回復←米中共同声明

 中華人民共和国政府が中国を代表する唯一の政府であること、台湾は中国の不可分な領土の一部であることを確認するとともに、中国が賠償請求権を放棄した。こうして中華人民共和国との戦争状態が終了し、代わって台湾政府とは外交関係が断絶した1952年の(日華平和条約)無効となった。サンフランシスコ講和会議から日中共同声明までの日中・日台関係を「日華平和条約」「池田勇人」「ニクソン」の3語を使って論述する問題が一橋大で出た。

ニクソン訪中の果実を横取りしたのが田中角栄だ。

経済 列島改造論…田中の国土開発構想 列島の分業化と交通網の整備。田中内閣のとき(国土庁)が設置されたことが早稲田(商2014)で出た。 論述研究→田中角栄内閣の外交と経済政策:一橋大2008⑶

第一次石油危機(オイルショック) 1973      

イスラエルとアラブ諸国との間で起こった第四次中東戦争が契機となり、石油価格の4倍引き上げが実施された。国内では激しいインフレ(狂乱物価)となる。物不足とパニック。次はトイレットペーパーと洗剤がなくなるのではないかというデマが流れ、買占めに走った省エネルギー・企業の合理化など

     →実質マイナス成長(戦後初) …高度経済成長から安定成長(低成長)

省エネマイカー自粛、ネオン・深夜放送自粛、石油・電力10%削減など

真説 田中角栄
「国土の均衡ある発展」を唱えた角栄は、種々の規制政策によって都市部大企業から地方中小企業を保護する一方、公共事業を通じて経済成長の成果を農村地域へ一方的に還流させることで、よくいえば「わざわざ都会へ出稼ぎに来なくてもお百姓さんが田舎で暮らしていける社会」、悪く言えば「保守政治家が地元を補助金漬けにして永遠に支配し続ける社会」を築くことをめざします。(「3.11」で可視化された過疎地の「原発漬け」もその一例で、田中内閣下で成立した74年の電源三法交付金によるもの。)【原発を誘致した市町村に交付金(何十億円)を交付した見返りの原発立地】。

1974.11金脈問題…田中の資金調達方法への疑惑と批判 →総辞職。

1976年には(ロッキード社)からの収賄に絡んで逮捕された。

1972 浅間山荘事件【連合赤軍事件】

浅間山荘での連合赤軍と警官隊との銃撃戦。

田中角栄の真実

「毛沢東・周恩来の目玉の黒いうちに

 

三木武夫内閣 パス

福田赳夫内閣

1978年(日中平和友好条約)締結。この条約で日本は中華人民共和国を中国で唯一の(合法政府)と認めた。また、(ソ連)を覇権主義とする条項を中国が入れる主張をしたので交渉が難航した。このときの外相は(園田直)【早稲田で出た】、中国外交部長は黄華)である。この年(成田空港)が開港。その後も農民と支援する人々との成田闘争が継続したことを記憶したい。

その他、1978年(日米防衛協力のための指針)が決められた。

超法規的措置

日本赤軍が日航機をハイジャックして、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸し、日本で服役または勾留中の政治犯9名の釈放を要求。福田首相は「人命は地球より重い」として「超法規的措置」により政治犯を引き渡した。

大平正芳内閣

元号法制定。天皇の時間のなかで生きろ!公文書の日付は元号で書かなくてはいけない。

鈴木善幸内閣

鈴木善幸首相の時、第2次(臨時行政調査会)が設置された。

また、(増税なき財政再建)という言葉も出た。

経済大国の実現

高度経済成長期に比して成長率は鈍化したが(減量経営)やハイテク産業の成長により安定的な経済成長となった。しかし、日本の貿易黒字が大きく拡大したため、(貿易摩擦)が深刻化した。特に、自動車輸出を中心とする日米貿易摩擦により、(1980)年代、ジャパン=パッシングが起こった。1980年、日本のGNPは世界の約10%に達し、

政府開発援助)【ODA】も世界最大規模となった。この時期の(青函トンネル)と(成田空港)の完成が出た。