遣隋使・遣唐使を中心とする古代外交 法学部2014


古墳・5世紀東アジア分野 

 遣隋使・遣唐使を中心とする古代外交

                    法学部2014

早稲田大学で頻出の遣隋使・遣唐使である細部まで学習してほしい。

 3世紀以降の列島各地には、大規模な前方後円墳が築造されるようになり、ヤマト政権を中心とする広域的政治連合が生まれていく。古墳時代前期〜中期においては、朝鮮半島南部の鉄資源の確保のため倭国は半島に進出し、a高句麗と交戦した広開土王碑(中国吉林省集安市)にも記されている。5世紀は朝鮮半島から技術を携え今来才伎と呼ばれた渡来人たちが列島に多く到来し、登窯を用いた須恵器の製作技術や金工技術、騎馬文化などが伝わるなど活発な国際交流がみられる時期である。また、朝鮮半島の各国や倭国は、競って北朝や南朝の皇帝の冊封を受けた。『宋書』倭国伝には、421502年の間にb5人の倭国王—讃・珍・済・興・武が朝貢したとの記載がある。

 6世紀末に中国で隋が南北朝を統一すると、高句麗への遠征を開始し、東アジア情勢は激動の時代を迎える。国内では推古朝以降にc飛鳥の地で継続的に宮都が営まれるようになり、政治・社会システムの中央集権化が進んだ。外交では、607年にd小野妹子を遣隋使として派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」と記す国書に煬帝が激怒した記事(『隋書』倭国伝)があるように、中国皇帝に冊封を受けた倭の五王の時代とは異なる外交上の立場をとっていた可能性もある。しかし、中国の先進的な制度・思想・文化の吸収への姿勢は強く、隋滅亡後の唐にも引き続き遣唐使が派遣されることになる。

一方、朝鮮半島では新羅が唐と結んで、660年に百済を滅ぼし、次いで668年には高句麗を滅ぼした。倭は百済救済のために水軍を派遣するが、e唐・新羅連合軍に白村江の戦いで大敗を喫した。敗戦後は、唐の都城制や律令制が積極的に導入され、特に壬申の乱で勝利し強大な権力を手にした天武天皇を中心に中央集権国家体制の整備が進んだ。694年には条坊を完備する初めての都城である【 C 】が完成、701年には大宝律令が完成し、天武が目指した古代律令国家体制が形を結ぶことになる。

 8世紀には広大な領域を支配した大帝国である唐の国際色豊かな文化が日本に流入し、

f唐長安城を模倣して710年に造営された平城京を中心に天平文化が花開いた。遣唐使は20年に一度派遣され、唐の先進的な制度や文化、文物を日本にもたらし、帰国した遣唐使たちは様々な分野で活躍した。一方で、阿倍仲麻呂(中国名【 D 】)のように入唐して玄宗皇帝に重用され高官となり、唐で終生を過ごす者もいた。また、朝鮮半島の新羅とは緊張関係を含みつつも民間レベルの交流は盛んで、渤海とも日本海ルートで密接な交流が進んだ。

〔問〕

1 下線aにあたる高句麗は、漢が朝鮮半においた4郡の1つを313年に滅ぼした。その郡は、倭国が漢と交渉する際の窓口で、現在の北朝鮮平壌市付近にあったと想定されている。それはどれか。次の中から1つ選びなさい。

 あ 楽浪郡  い 真番郡  う 臨屯郡  え 帯方郡  お 玄菟郡

 

2 下線bにある倭の五王の遣使は、倭王武の上表文を最後に断絶する。倭王武だと考えられ、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に「ワカタケル大王」として登場する天皇は誰か。次のうち1つ選べ。

 あ 応神天皇  い 仁徳天皇  う 反正天皇  え 雄略天皇  お 安康天皇

 

3 下線cにあるように、7世紀前半を中心として、飛鳥では宮都や寺院を中心とした華やかな飛鳥文化が花開いた。百済や高句麗、南北朝時代の仏教の影響を強く受けて建立されたこの時期の寺院で、舒明天皇創建と伝えられる寺院を次のうちから1つ選べ。

 あ 飛鳥寺  い 百済大寺  う 四天王寺  え 法隆寺  お 山田寺

 

4 下線dの遣隋使に関する次の記載のうち、正しいものを1つ選びなさい。

 あ 600年の遣隋使に対して、隋文帝は裴世清を国使として日本に遣わした。

 い 小野妹子は、607年の遣隋使に際して一度だけ派遣された。

 う 608年の遣隋使では、旻・高向玄理・南淵請安らが学問僧・留学生として隋に渡った。

 え 犬上御田鍬が、608年の裴世清の帰国に際して送使として派遣された。

 お 614年の遣隋使は、計画されたものの、隋が滅亡したため派遣されなかった。

 

5 下線eの敗戦後、列島では百済からの亡命貴族を中心に防衛用の朝鮮式山城が数多く作られた。その中で大宰府防衛のために作られた山城を次のうちから1つ選べ。

 あ 水城  い 鞠智城  う 高安城  え 大野城  お 多賀城

 

6 空欄Cには、天武が造営を開始し、持統が完成させた初めての本格的中国式都城の名が入る。『周礼』孝工記で理想の王城とされる都市プランとの整合性が高いこの都城の名称を漢字3字で記せ。

 

7 下線fにある平城京に関する次の記載のうち、正しいものを1つ選びなさい。

 あ 大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺などの大寺院は京外(条坊より外)に置かれた。

 い 宮城には天皇の住む内裏、政治・儀礼空間である太極殿と朝堂院がある。

 う 中央を南北に走る朱雀大路の東が右京、西が左京と呼ばれた。

 え 聖武天皇の時代には、唐長安城を凌駕する人口を誇った。

 お 平城京に南正門として朱雀門、平城宮の南正門として羅城門があった。

 

8 空欄Dには、717年に留学生として唐に渡り、李白などとも交流した遣唐使である阿倍仲麻呂の唐名が入る。漢字2字で記しなさい。

 

遣隋使・遣唐使を中心とする古代外交 解答と解説はコチラ

 

 

律令国家の形成過程 国際教養2015


 

古代における律令国家の形成過程は、倭国を取り巻く東アジア情勢の中で理解する必要がある。中国で589年に隋が南朝の陳を滅ぼして大陸を統一すると、高句麗への大規模な遠征を開始した。倭国は、朝鮮半島の特に新羅に対する優位性を示すため、a遣隋使を派遣すると同時に、国内的には、b推古天皇と厩戸王のもとでc冠位十二階や憲法十七条を制定するなど、官僚制に基づく権力体制を整えていった。

 618年に隋が滅び、唐王朝が成立すると律令法に基づく中央集権的な国家体制が強化され、引き続き朝鮮半島への圧迫が強まった。高句麗・百済・新羅は、対唐関係や国内の権力集中をめぐって混乱を深め、朝鮮半島は不安定な情勢に陥っていく。一方、国内ではd権力をふるった蘇我氏が、e中臣鎌足と中大兄皇子によって打倒され、幸徳朝において大化の改新と呼ばれる一連の政治改革が進められた。

 660年に唐・新羅によって百済が滅ぶと、倭国はその復興のために大軍を派遣するが、663年に朝鮮半島西岸の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。唐・新羅は続く668年に高句麗を滅ぼすが、676年に新羅が唐の勢力を退け半島を統一する。一方、国内では中大兄皇子が白村江の戦いの後に、f対唐・新羅防衛策を進めると同時に、大津宮で即位(天智天皇)してg国家体制の整備につとめた。

 天智天皇の死後には、大海人皇子と大友皇子の間で皇位継承をめぐる争いが起きたが、壬申の乱で勝利した大海人皇子が673年に【 A 】で即位(天武天皇)し、h皇族や皇親を中心として律令制に基づく中央集権的な体制の整備を進めた。天武天皇が進めた諸政策は、持統・文武天皇へと引き継がれ、藤原京の完成、大宝律令やj律令管制の整備などに実を結び、中央集権的な律令国家体制が成立していった。

〔問〕

1 下線部aの遣隋使として誤っている選択肢はどれか。1つ選びなさい。

 ア 小野妹子  イ 南淵請安  ウ 旻  エ 裴世清  オ 高向玄理