23 第二次世界大戦


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口癖が「ああ嫌になった、やめたい」近衞は辞めて、平沼がなる。

平沼騏一郎内閣

張鼓峰事件1938.7 P357 この事件の時の内閣名が出た早稲田(法)2013
 ソ連と日本が領土とした満州国とソ連との国境付近張鼓峰で起こったソ連と日本との武力衝突事件。日本が敗北して8月に休戦協定が結ばれた。陸軍は外相の承認を得たと昭和天皇にうそを見抜かれている。板垣征四郎陸相だ。「陸軍は全てを失うまで目が覚めないな」【昭和天皇】。

ノモンハン事件1939.5満蒙国境 

暇を持てあました関東軍の参謀たちが手柄ほしさにソ連軍を挑発大打撃(9,000死者)被る。開始時は(平沼騏一郎)内閣で停戦協定時は→(阿部信行)内閣が出た。この戦闘のさなか8月に(独ソ不可侵条約)が締結され、日本が衝撃を受けたことを記憶せよ。

張鼓峰とノモンハンは地図で確認せよ!

 

独ソ不可侵条約1939.8

日独伊防共協定)の仮想敵国であったソ連とドイツが不可侵条約を締結したことは、日本に大きな衝撃を与えた。軍事同盟の共通の敵をソ連とするように交渉している最中の出来事であった。(平沼騏一郎)内閣は、「欧州の天地は(複雑怪奇)」と声明して総辞職したことが出た。

日米通商航海条約破棄

 日独間の軍事同盟交渉が伝えられると、19377月、日米通商航海条約廃棄を日本に通告した。この出来事もノモンハンの最中で、通告は→(平沼騏一郎)内閣時、発効は→(米内光政)内閣時であったことが出た。

阿部信行内閣 陸軍大将 何もなし。

米内光政内閣 海軍大将 ※親米派

阿部信行内閣は1939年8月に成立し翌月にドイツがポーランド侵攻

1939.9 第二次世界大戦勃発

イツ・イタリアVSイギリス・フランス当初はドイツが優勢=フランスの降伏1940

日本は中国との戦争中のため、阿部信行内閣・米内光政内閣は不介入方針をとる。ドイツによる対フランス戦勝利を受け、国内では陸軍を中心にドイツへの接近を図る動く急。しかし、この間も(援蒋ルート)の遮断と資源獲得を目指して南進は進んでおり、米英との関係はますます悪化していた最後の元老(西園寺公望)【1940年没】が天皇に首相の推挙を行ったのは米内内閣まで。この内閣の時、行われた立憲民政党(斎藤隆夫)のいわゆる反軍演説が出た。演説は事変の拡大と近衛声明以降も遅々として進まない和平交渉に根本的疑問を投げかけた。ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閉却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲をつかむような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の【和平の】機会を逸し、国家百年の大計を誤ることがありましたならば…(議長騒然)」

【史料問題で出ている】。この演説は陸軍を怒らせ、彼は議員除名となる。彼の除名に反対した議員はわずか7名にすぎず、衆議院は自ら言論の場を放棄したのである。彼はまた、二・二六事件後に軍の行動を批判するいわゆる(粛軍演説)を行ったことも有名で、出題されたことがある【広田弘毅内閣の時】。

 

援蒋ルートを寸断し中国の孤立化を図る、南方資源確保を目指す(対米英開戦に傾く)

重慶)に根拠地を移した蒋介石政権を支援する米英などの物資支援ルート。ソ連は中ソ不可侵条約締結後、広東ルートから支援した。イギリスは(香港)ルートが最大であったが、日本が南進して広州占領によって広東・香港ルートを遮断すると、ソ連はルート、イギリスは(仏印)ルート・(ビルマ)ルートから支援した。日本は、ドイツが東南アジアを支配するイギリス・フランス・オランダをヨーロッパで危機に陥るのを見てドイツとの同盟を決心し、同時に仏印ルート遮断と資源獲得を目的に、(北部仏印)に進駐した。

👉これは大バクチだ!日中戦争を終わらせることができるのか?次の戦争が始まるのか?マレーシアのゴムとボーキサイト、そしてその先のオランダ領インドシナには石油がある。そして米英仏の植民地がある。

1940.2 歴史学者で早稲田大教授の津田左右吉の「神代史の研究」が、皇室の尊厳を冒涜するものとして発禁処分を受ける。頻出ですね!

 1940.3 中国国民党左派の汪兆銘日本の支援の下南京に親日政権樹立=南京政府

これは日本の傀儡政権であった。

7月米内内閣総辞職。木戸は後継に近衛を推薦

新体制と三国同盟

👉戦争をしたくない米内光政は対米英協調路線を展開していたので、この内閣では南進を進めることは不都合であった。陸軍の論理では、海軍はあれだけ大量の軍艦を増やしてきたのに戦争できないというのは無責任だ!ということになる。こんなとき近衞の新体制運動が始まるのである。

第二次近衛文麿内閣 

難局打開のため、近衛を中心にドイツ流の独裁国家を模範とした新体制運動1940こる。

すなわち一国一党体制の形成=政治・戦争にわたる一元的な指導体制をめざす近衛は日本の強い態度を中国や世界に示すことで日中戦争を有利に進めようとしたのである。👉政治を軍部が動かしているのに対し、近衞はこれを抑えるためには大衆組織を基盤に国民を統合しないとダメだ!と考えた。国民は戦争の長期化と政治の腐敗に嫌気がさしていたので、近衞に期待した。軍部はナチスのような一国一党を実現し、対米英戦を行い、これに勝って中国を屈服させたい。ドイツの勝利にあやかりたかったのだ。だから南進するため畑俊六陸相を辞任させ、後継を出さず、近衞を推薦した。陸軍は陸相に東条を推薦。外相には松岡洋右。軍部を抑えるどころか、ぴったり一緒にやっていくメンバーになってしまった。

近衛内閣発足の7月に、閣議決定された(基本国策要項)が出た。

日本がアジアの盟主として世界の平和に貢献するため国防国家体制を作ることが必要だとして政治の変革、経済統制の強化、独伊との関係強化などを明確化した。
9月に(北部仏印)に進駐したことも出た。イギリスがまもなくドイツに屈服するという前提のもと、ほぼ同時に(日独伊三国同盟)を結び【外相は(松岡洋右)が頻出】、これには(ソ連)の除外規定があったこと、(アメリカ)を仮想敵国としていたことが出た。この二つの日本の動きに前後して、アメリカは(航空機ガソリン)や(屑鉄)の対日輸出禁止措置をとったことも出る。

 

1040.10 大政翼賛会が発足

ア 結成に先立って全政党が解散議会の内閣に対する監視機能が低下 

 イ 国民統制のための行政補助機関のち町内会・部落会・隣組などを下部に編成


近衛とその側近グループは一元的な戦争指導体制の整備をめざしたものの、近衛が首相兼総裁として権力を集中させることは「近衛幕府」の樹立であり国体に反するなどの批判を受け、政党組織ではなく公事結社として結成された。こうして近衛らの意図は具体化されず、(上意(じょうい)下達(かたつ)
)機構として機能するに至った。👉近衞はすっかりやる気をなくしてしまった。この人そういう人なんですね。

1940.11 労働組合・労働団体が解散され、全国組織として大日本産業報国会が結成される。529万人の大組織。青年組織として(大日本青少年団)が出た。婦人組織では(大日本国防婦人会)【1932年設立】、(愛国婦人会)【1901年設立】(大日本連合婦人会)【1931年設立】が統合して、1942年に(大日本婦人会)となったが、これが最も出る。

👉隣組は国民生活を相互に監視し、上意下達の組織として作られる。物資の配給、貯蓄の割当、回覧板、防空演習、出征兵士の見送りなどいろいろな命令を出して守らせる。戦死すれば「軍国の母」「軍国の妻」として持ち上げる。ひどいものだ。

国民学校

1941.3 小学校が国民学校と改称する。ナチス・ドイツの教育制度を模倣した。「皇国の道」という概念のもと、戦時体制を支える「(小国民)」を育成するとされた。

皇民化政策

皇国臣民化ということ。朝鮮に建設した朝鮮神宮の参拝、宮城遥拝(皇居に向かって拝む)、朝鮮語(ハングル)の使用禁止、日本語の常用強制などが実施された。特に19402月から実施された( 創氏改名 )【日本式の氏名に変えさせること】の強制は記憶したい。

また、日本の過酷な支配に対して、占領地では抗日運動が展開され、日本軍は治安の確保に追われた。1942215日シンガポール占領後、日本軍が抗日的とみなした中国系住民数万人をシンガポール・マレー各地で虐殺したのはその代表的事例である【早稲田で出た】。

太平洋戦争の始まり

日本は南進のためには北方の安全を確保する必要があり、さらに日独伊三国軍事同盟にソ連を加えた四国協商でアメリカを圧倒しようという 松岡洋右 外相の構想のもとにソ連と交渉し、4月、 日ソ中立条約 を結んだ【有効期間は5年】。しかし、6月にドイツがソ連を奇襲攻撃し、 独ソ 戦争が始まると、日本は72日の御前会議で南北併進の方針を決定し、陸軍は極東ソ連領の占領計画を立て 関東軍特殊演習 の名目で約70万の兵力を満ソ国境に結集させた。また対米強硬派の松岡洋右を除くため、内閣改造。

第三次 近衛文麿 内閣 

1941.8  南部仏印 進駐

 日本軍、軍需物資調達を目的とし南進。これに対しアメリカは( 在米日本資産 )凍結と( 対日石油輸出 )禁止の措置を決めた。この措置と19397月の( 日米通商航海条約 )廃棄の措置、19409月の北部仏印進駐・日独伊三国同盟前後における( 航空機用ガソリン )( 屑鉄 )の対日禁輸措置と混同しないこと。その後形成されたABCD包囲網=A アメリカ  B イギリス C 中国 D オランダ )の脅威を訴え、9月6日の御前会議で帝国国策遂行要領が決定された。

 1941.9 アメリカ・イギリスとの開戦準備を決意=「 帝国国策遂行(すいこう)要領 

 御前会議 で決定9.6

☶史料研究 帝国国策遂行要領(日本外交年表並主要文書)九月六日
帝国ハ現下ノ急迫セル情勢特ニ米英蘭等各国ノ執レル対日攻勢「ソ」聯ノ情勢及帝国国カノ弾撥性等ニ鑑ミ「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」中南方ニ対スル施策ヲ左記ニ依リ遂行ス
一、帝国ハ自存自衛ヲ全フスル為
対米(英蘭)戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス
二、帝国ハ右ニ並行シテ米、英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム
三、
前号外交交渉ニ依リ十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス

 日米交渉 が難航し、さらにアメリカが 石油の対日輸出を全面禁止 するなど対日経済封鎖を強めたため、19419月、近衛Ⅲ内閣と陸海軍は御前会議で、日米交渉妥結の権限を10月上旬とし、10月下旬をめどにアメリカ・イギリス・オランダとの開戦準備を整えることを決定した。そして、タイムリミットの10月上旬までには日米交渉は妥結せず、そのため、交渉継続を主張する近衛首相と対米強硬派の東条英機が対立し、近衛Ⅲ内閣は総辞職した。後継は、最後の元老西園寺が前年に死去していたため、内大臣 木戸幸一 と重臣の推挙する 東条英機 陸相に決定。東条内閣は日米交渉を継続したが、( ハル=ノート )がアメリカから提案され、交渉成立の余地はなくなった。

ハル=ノート

この文書はアメリカも日米開戦を決意し、交渉に厳しい条件を設けたものといわれる。アメリカ側からの最終提案として、 中国仏印 からの撤兵、 三国同盟 廃棄、 満州事変以前の状態に戻す ことを盛り込んだ内容。しかし、ハル=ノートは、「( 満州事変 )以前の状態への復帰」求めたわけであるから、大陸におけるすべての権益を放棄せよ!と言っているわけではないことに注意。日露戦争で得た日本の権益や朝鮮の植民地化は問題となっていないのである。このことが正誤問題で出ている。開戦を最終的に決定した契機となったアメリカの動きを論述せよ、という一橋大の問題が出た。

☶史料研究 ハル・ノート(日本外交年表並主要文書)
 合衆国政府及日本国政府ハ左ノ如キ措置ヲ採ルコトヲ提案ス
三、日本国政府ハ支那印度支那ヨリ一切ノ陸・海・空軍兵力及警察カヲ撤収スヘシ
四、合衆国政府及日本国政府ハ臨時ニ首都ヲ重慶ニ置ケル中華民国国民政府以外ノ支那ニ於ケル如何ナル政府若クハ政権ヲモ軍事的、経済的ニ支持セサルヘシ
九、両国政府ハ其ノ何レカノ一方カ第三国ト締結シオル如何ナル協定モ、同国ニ依リ本協定ノ根本目的即チ太平洋地域全般ノ平和確立及保持ニ矛盾スルカ如ク解釈セラレサルヘキコトヲ同意スヘシ