5 近代産業の育成


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NO5 近代産業の育成・貨幣金融制度の整備 

殖産興業
大久保利通政権下の経済・財政政策と豪農層の成長・豪農民権の盛り上がりを一つの流れで確認する。大久保政権の基本的姿勢は、国づくりの基礎を豪農にすえ政府の強力な指導と保護のもとで、彼らの経済活力を増進させることによって国家の自主独立( 富国強兵 )を確立させようとするもので、そのための政府機関として( 殖産興業 )・地方行政・警察行政を一手に扱う( 内務省 )を設置し、自らその長官に就任して民間企業の奨励・育成へと入っていきます。

 

工部省 1870年に新設された殖産興業を担当する中央官庁。鉱山、製鉄、造船、鉄道、機械製作などを管轄。官営工業の中心。工業技術教育のための1874年工部校→工部大学校→1886東京大学に吸収され工学部の前身となった。初代工部卿→ 伊藤博文 が取り仕切る。

内務省

内務省は1873年設置。勧業、警察、土木が仕事であり、近代産業育成のためのインフラ整備に当たる。欧米の視察をおこなって産業の遅れを痛感した 大久保利通 は、自らが内務卿になって殖産興業に力を入れる。1877年に開催された第1回( 内国勧業博覧会 )はよく出る。( 臥雲辰致 )が発明した( ガラ紡 )がこの博覧会で最高賞を与えられた。

 

*お雇い外国人の指導
御雇い外国人はのべ3000人。工部省だけで580人。
・造幣寮で貨幣を造ったキンダーの月給は1045円。米1石は3円なので、現在の米価換算なら1700万円となる。年収2億でプロ野球選手並。富岡製糸工場長のブリューナは600円。岩倉が600円、大久保が500円、一等工女は1円75銭。工部省の経費227万円の3分の1は御雇い外国人の俸給だった

富岡製糸場

1872年、 群馬県 富岡に開設された官営模範工場。

フランス人技師(ブリューナ)とフランス式器械にもとづくもので、器械製糸業の普及に貢献し、1893年、三井に払い下げられた。

 屯田兵  

明治期に北海道の開拓と警備にあたった農兵。当初は、 士族授産 の目的もあり、移住者総数は約4万人に及んだ。また、北海道開拓使の顧問となって尽力した( ケプロン )【元アメリカ合衆国農務局長】が出る。札幌農学校の設立にも関わった。札幌農学校→( クラーク )だけではダメ。

鉄道敷設
1872年に( 新橋 )( 横浜 )間が開通。指導したのはイギリス人の( モレル )であることが出た。1874年には( 大阪 )( 神戸 )間が開通。東西の開港場と大都市が結びついた。  1889年に営業キロ数で( 民営 )が( 官営 )を上回ったこと、日清戦争後、( 青森 )・( 下関 )間が開通した。

⑥郵便制度

1871年( 前島密 )の建議で発足。飛脚制度を改めて、官営事業として郵便の全国均一料金制を実現した。

⑦電信
電信は、1869年に( 東京 )( 横浜 )間、1871年には( 長崎 )( 上海 )間が海底電線で通じた。

⑧海運

海運は軍事輸送(西南戦争や台湾出兵)と関連しながら、土佐藩出身の( 岩崎弥太郎 )の経営する( 郵便汽船三菱会社 )に保護が与えられた。


貨幣・金融制度の整備
①金本位制…その国の紙幣通貨量を金との互換性によって保証するものである。それ故に通貨の信用度はきわめて高いが、同時に通貨発行量が国家の保有する 金の量 によって決められてしまう。金本位制をとる国家間の貿易では、 輸出競争力のない 国の金が、強い国へと流入していくことになり、結果として国内の通貨供給量がどんどん収縮していく。

正貨準備:中央銀行がその発行紙幣の兌換のために保有する金(銀本位制の場合は銀)のことを正貨準備という。

⒝兌換:兌換とは正貨(金本位制の場合は金銀本位制の場合は銀と引き換えるという意味。正貨との交換が可能な紙幣のことを兌換紙幣といい、兌換義務を負わない紙幣のことを不換紙幣という。

1871新貨条例円・銭・厘の十進法で硬貨発行金本位制の採用(現実は金銀複本位制)

金本位制って「背伸び」だね。欧米の金本位制をまねたもの。鹿鳴館時代と同じ猿真似ね。国内で流通している貨幣は大半が銀だ。

十進法の貨幣制度は大隈重信が建議、大隈は、銀貨を本位貨幣とし、金貨を補助貨幣とする金銀複本位制を考えていたが、アメリカに出張中の大蔵少輔兼民部少輔伊藤博文】から「現在、世界の趨勢は金本位制に向かいつつあり」と大蔵卿(伊達宗城)に対し建言があり、金本位制が採用された。しかし、実際は金本位制は建前であり、実際は金銀複本位制であった。

1872国立銀行条例アメリカのナショナルバンク模倣

渋沢栄一が制定の中心

第一国立銀行など民間の国立銀行が4行設立。

国から兌換紙幣の発行を義務づけられた民間銀行の意味。
そこには、民間の経済力を活用する方策をとることで兌換制度の確立と近代的銀行制度の導入を目指すという意図があった。しかし、国立銀行券は信用の確保に失敗して兌換請求が相次いだため、この政策も兌換制度を直ちに確立することには失敗した。(国立銀行は4行のみ)

国立銀行条例の改正

・・・設立条件の緩和(国立銀行券の兌換義務廃止など)により国立銀行急増、153行に及んだ。不換紙幣を発行➡インフレが進行、1879年設立打ち切りとなった。また1876年からは国立銀行とは異なる私立銀行も設立できるようになった。 最初の私立銀行が三井銀行であった。

 

過去問研究 貨幣・金融制度の整備 慶應(文)2015

 1871年、明治政府は( K新貨条例 )を制定し、円・銭・厘を単位とする単一の系列の貨幣制度へと移行した。従来の一両は1円とされ、またそれぞれの単位の関係は( L100 )銭=1円、10厘=1銭であった。この頃、財政難から太政官札・民部省札などの( M不換 )紙幣が乱発され、通貨の安定が損なわれていたので、1872年、アメリカの制度にならって( N国立銀行条例 )を定め、( O 兌換)銀行券の発行を促そうとした。しかし、発券銀行の経営難から1876年に( O兌換 )義務を取り除いたため、銀行券が( M不換)紙幣化し、さらに翌年起こった西南戦争の戦費調達のため、( M不換 )紙幣が増発されたことから、激しいインフレーションが起きてしまった。

問 空欄に適切な語句を記せ。