11 国風文化・荘園


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       醍醐寺の五重塔 京都
       醍醐寺の五重塔 京都

国風文化

 10世紀から11世紀、日本独特の文学や美術が数多くつくられ、貴族文学の

国風文化が発達した。

万葉がなの草書体を簡略化したのが平がなである。

古今和歌集

醍醐天皇の命により905年に完成した最初の勅撰和歌集。撰者→紀貫之 

古今和歌集から新古今和歌集までの勅撰和歌集を八代集という。

伝説を題材にした 『竹取物語』や歌物語の『伊勢物語』がある。

源氏物語

源氏物語の作者紫式部は、藤原道長の娘彰子に仕えた。

枕草子

作者清少納言は、一条天皇の皇后であり藤原道隆の娘である定子に仕えた。

古今和歌集の編者の一人である紀貫之は土佐から京都までの紀行文である『土佐日記』を著した。

蜻蛉日記=藤原道綱の母は、藤原兼家との生活を綴っている。

更級日記=菅原孝標の娘は、貴族の娘の回顧録

摂関全盛期を題材とした歴史物語の『栄華物語』は、これまでの正史と同じ編年体で書かれている。

浄土の信仰

天照大神➡大日如来の化身とされた。

本地垂迹説とは、神は仏が仮に形をかえてこの世にあらわれたもの、すなわち権現とする思想である。日本の神様はインドの仏様だった。

        北野天満宮 洛西
        北野天満宮 洛西

御霊信仰
御霊会の流行。政治的敗者が怨霊となって祟るのを防ぐため怨霊や疫神を祀って疫病や飢饉等から逃れようとした。863年、朝廷は平安京内の神泉苑で早良親王をまつる御霊会を行ったのが最初である。

現在、京都で7月に行われる祇園祭は、八坂神社の御霊会の流れを汲む祭事であるは、京都大で出た。後醍醐天皇の怨霊を鎮めるため天龍寺が建立され、平将門の怨霊を鎮めるため神田明神が建立された。最も著名なのが、菅原道真を祀る北野天満宮である。早稲田大で出た。

浄土教

密教が現世利益を願うのに対し、浄土教は、阿弥陀如来を信仰して来世での極楽往生を願う信仰。末法思想の流行が拍車をかける。末法思想とは、一つの終末思想で、釈迦が亡くなったのち、正法・像法・末法と世の中が展開し、末法には仏法が衰退するとされた。関西大


10世紀半ばに空也が出た。民間で念仏行脚している姿から市の聖とも言われた。六波羅蜜寺の空也像は鎌倉時代中期の康勝の作品である。

次いで、源信が出て『往生要集』を著した。

10世紀の末、慶滋保胤が『日本往生極楽記』を著した。

浄土教が流行したといっても天台・真言密教が圧倒的に支持されていたことを記憶したい。

国風美術

寝殿造

貴族の住宅は白木造・桧皮葺の寝殿造がつくられるようになった。屏風や障子に日本の風景を題材とした大和絵が描かれた。大和絵の初期の代表的作家は巨勢金岡である。蒔絵!絵ではなく工芸品!

三蹟

藤原行成は 小野道風、藤原佐理とともに三蹟と呼ばれた能書家である。

藤原佐理=『離洛帖』小野道風=『屏風土代』

法成寺

藤原道長が創建したこの寺院、現存していないが問題はよく出る。法成寺の無量寿院で阿弥陀像の手から引かせた糸を握って臨終を迎えたという。

平等院鳳凰堂
藤原頼通1052年、宇治の別荘を寺としたもの。頼通が宇治殿と呼ばれ定朝作阿弥陀如来像が阿弥陀堂である鳳凰堂に安置される。

定朝

定朝工房が寄木造(分業による造像)の仏像を製作した。定朝の様式は円派・院派・慶派に受け継がれる。特に慶派は康慶から子の運慶、弟子の快慶、孫の湛慶へとつながるので流れを理解したい。その他藤原氏支流の日野氏が建立した法界寺阿弥陀堂や阿弥陀如来像も残っている。

聖衆来迎図

来迎図は、往生を願う人々の臨終に際し、阿弥陀如来が多くの菩薩を従えて迎えにくる様子を描いた。弘仁・貞観文化の曼荼羅との比較。国風では来迎図。

貴族の生活

男性貴族は正装として束帯・衣冠を着用し手にはをもって威儀を整えた。また貴族の衣服はを用い、仏教の影響で獣肉を食べないことが2015センターで出た。

女性貴族の正装は唐衣や裳をつけた女房装束十二単とも呼ばれた。庶民の衣服の直垂や水干なども絵で確認したい。

年中行事

神事として6月と12月晦日に大祓、吉凶判断は陰陽五行説にもとづく陰陽道が広まった。ひきこもって行動を慎む物忌や凶の方角を避けて行動する方違などの禁忌があった。陰陽寮でつくられ、その日の干支や吉凶を記載した暦を具注暦という。具注=記載事項【暦注】が詳細に入っていること

受領と負名

延喜の荘園整理令 醍醐天皇期、藤原時平らが実施。

史料 「天平神護元年の格」とは、道鏡時代に出された加墾禁止令である。


この史料をおさえると無敵だ。「天平神護元年三月丙申、勅すらく、「今聞く、墾田は天平十五年の格に()るに……自今以後、一切に禁断して加墾せしむること(なか)れ。但し寺は先来定むる地、開墾の次は禁ずる限りに在らず。

1.天平十五年の格は、一般に何と呼ばれているか。

墾田永年私財法

2.この史料が出されたときの政権担当者は誰か。道鏡

復習で養老七年の格=三世一身法、天平十五年の格=墾田永年私財法。この整理令以後、班田を命じる史料はみられない。租調庸の取り立てはもはや不可能になっていった。

その実態を示したのが↓

意見封事十二箇条

☶史料研究

言す。……臣、去る寛平五年、備中介に任ず。彼の国下道郡に邇磨郷有り。爰に彼の国の風土記を見るに、皇極天皇六年、大唐将軍蘇定方、新羅の軍を率ゐて百済を伐つ。……皇極天皇六年庚申より、延喜十一年辛未に至るまで、纔に二百五十二年、衰弊の速かなること亦既に此の如し。一郷を以て之を推すに、天下の虚耗、掌を指して知るべし。

「臣」とは、三善清行この史料は意見封事十二箇条であり醍醐天皇の求めに応じて書かれたことを確認。

守・受領

9世紀末〜10世紀前半、国司の交替制度を整備し、任国に赴任する最上級者=に大きな権限を与えられた。

律令制支配が行き詰まるなか、国司に徴税や地方支配の権限が大幅に委ねられるようになり、任国に赴いた国司の最上席者は受領と呼ばれた。出世するためには徴税をしっかり、だから取り立ては厳しい。右の図を見ながら…

国司は領内の田地をという課税単位に編成し、田地の広さに応じて徴税した。10世紀、田堵と呼ばれた有力農民が田地の耕作を請け負うようになった。堵って家の周りの垣根の意味だ。名の耕作を請け負った有力農民は、税の単位となる田地の呼称を付して

税の納入請負人➡負名とも呼ばれた。

国司が任国に赴任せず、国司としての収入のみを受け取ること=遙任
 受領の代表が、「尾張国郡司百姓等解文」の藤原元命と、「今昔物語集」で「受領ハ倒ル所ニ土ツカメ」と言ったとされる信濃守藤原陳忠である。
 国の守が任国にいない場合、派遣される代官を
目代といい、国のトップ(守)が不在となった国衙を留守所、留守所をしきる現地の役人を在庁官人という。
官職の利権化
造宮・造寺などの費用を請け負う=成功
成功によって同じポストに再任されたり、任期を延長される=重任

 受領は公領(国司の荘園のような状態だったため国衙領ともいう)の耕作を有力は農民に請け負わせた。
 田堵は、律令制の租・調・庸にあたる
官物や、雑徭などに相当する臨時雑役
を負担した。

初期荘園と寄進地系荘園
(1)墾田永年私財法(743)以後できた、初期荘園という言葉も受験用語。荘園整理令が出された10世紀(最初は902年の延喜の荘園整理令)以後、寄進地系荘園へと移っていく。
(2)寄進地系荘園は、
肥後国鹿子木荘の史料と合わせておさえる。鹿子木の場所

肥後国が出た。史料の出典「当時百合文書」も出た。史料でチェックすべき語句は、開発した土地を領有した大名田堵や豪族は、➡開発領主と呼ばれた。開発領主の中には、国衙の行政実務に参加する者もおり、彼らは在庁官人と呼ばれた。開発領主は、国司の厳しい課税から逃れるため、中央の権力者にその領有権を寄進した。開発領主が自分の所領を中央の権力者に寄進して成立した荘園を寄進地系荘園という。開発領主は預所や下司・公文・荘司などの荘官となり、現地での支配を保持した。開発領主から寄進を受けた貴族・寺社などは荘園領主となり、領家と呼ばれた。領家はさらに上級者に寄進することもあった。この上級者を本家という。領家・本家のうち、実質的な支配権を持つ者を本所と呼ぶ。官物(かんもつ)が免除される権利を不輸の権、国司が派遣する田使の立ち入りを禁じる権利を不入の権という。中央政府の太政官符や➡

民部省符によって不輸の特権が公認された荘園を官省符荘という。

ラスト!国免荘は、国司によって税の免除が認められた荘園をいう。