37 秀吉の天下統一②2014ver


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  秀吉、北野大茶会を催し、貴賤・貧富の差なく参加を呼びかける。

秀吉千利休今井宗久・津田宗久が席を設けた

1588 秀吉聚楽第着工し、後陽成天皇が行幸する。天皇が赴いたということ。

刀狩令を出し、農民から武器を取り上げる。兵農分離が進む。

また同日、海賊取締令を出し倭寇禁圧する。

名目上は、秀吉が建立した方広寺の大仏建立

史料研究 『刀狩令』(「小早川家文書」)  

1.「給人」とは★★より知行地を与えられている者のことである。(日本大)豊臣秀吉

2.「大仏」とは★★★寺の大仏をさす。(明治学院)方広寺

3.これは★★★の史料である。(東洋大)刀狩令

4.この史料の発布者は★★★である。(同志社)豊臣秀吉

5.この史料は★★年に出された。(東京農業大)1588

6.この法令は★★を目的に出された。(日本女子大)兵農分離

7.この史料の出典は『  』である。(予想)

小早川家文書

 

1590 ヴァリニャーニ活字印刷術を伝える。翌年から キリシタン 版刊行。

小田原攻め後北条氏を攻め滅ぼす。北条氏政切腹、子の氏直追放(高野山)家康は、小田原攻めのあと、駿河より江戸城へ移る。

伊達政宗(奥州)を下し、奥州平定。秀吉全国統一

 入試の極意 五大老・五奉行

五大老

徳川家康

前田利家

毛利輝元

宇喜多秀家

上杉景勝

五奉行

浅野長政

増田長盛

石田三成

前田玄以

長束正家

 太閤検地が本格化、検地反対の陸奥・葛西・大崎一揆勃発。この一揆は検地により領主の地位を失った国人たちが蜂起した。

入試の極意 石高制と検地

石高

田畑・屋敷地の等級(上、中、下、下々)に応じて石盛(段あたりの標準収穫量)を決める。石高= 石盛×面積によって土地を把握するやり方を石高制という。

年貢高は二公一民であった。

検地

 目的農民掌握 租税基盤の確立  

 役人を派遣し、検地尺を用いて検地を行ないながら、一村単位で検地帳を作成していう方式で全国に検地を実施した。これを太閤検地といい、従来の貫高制から石高制に改めたため天正の国直しともいう。

面積単位の統一 

1町=10段、1段=10畝、130歩とする

長さ1間=63(≒191cm

容積1石=10斗=100升=1000合(京枡に統一、1升≒1.8

検地の意義

 太閤検地により、中世以来の荘園制が崩壊し寺社・公家の没落 がみられた。複雑な土地関係は一掃され、一つの土地には一人の百姓が保持し、耕作するという一地一作人の原則が確立され、自己の田畑の所有権を法的に認められた。つまり、一人の領主が農民を直接支配するという関係が成立したのである。

入試の極意 経済史

財政基盤は何か!秀吉の直轄領は 蔵入地 と呼ばれ約200万石。

鉱山の直轄佐渡相川金山但馬生野銀山。銀の精錬技術である 灰吹法 を朝鮮から伝えた博多商人神谷寿禎が銀山開発に乗り出した 石見大森銀山の直轄領。

直轄都市京都・大坂・堺・伏見・長崎

〇商業と交通

 信長は、楽市楽座を実施し、商品取引の自由によって、城下町の繁栄や商業統制を行なった。地域としては美濃加茂・近江安土など。

 関所の撤廃・関銭廃止

特産物

木綿の栽培(三河で始まり、河内・尾張・伊勢)

○貨幣 秀吉が後藤徳乗に命じて鋳造させた天正大判は贈答用。

金を流通させなかった秀吉

 天下を取った秀吉は領土の大部分は子飼いの部下に散じたが、金銀鉱山だけは、すべて、しっかりと自分の直轄とした。直轄の金銀鉱山で得た金は退蔵して流通させなかった。伏見城に蓄えたのである。電灯のない時代、夜ともなれば真っ暗だった。場所は安土城、月のない晩の漆黒の闇、その中で、かすかな星の光で浮き上がる金の茶碗、狩野永徳が描いた『四季花鳥図屏風』を前にして、永徳自身が、金屏風の価値を激白する。金地の背景は光の強弱によって微妙に変化する。ことに自然光のもとでは陰翳を帯びた幽玄の世界を現出する。電灯のもとで金をけばけばしいものと見るのは、現代文明の弊害だろう。老生は、利休より秀吉を買う。

            『黄金の日本史』加藤廣著

 論述研究 豊臣秀吉が天下統一に向けてとった手法はとは? 東大20092

豊臣秀吉が戦乱の世をしずめ,全国統一を実現したことにかかわる次の(1)(4)の文章を読んで,下記の設問A~Cに答えなさい。

(1) 1585年,秀吉は九州地方の大名島津氏に,次のような趣旨の文書を送った。「勅命に基づいて書き送る。九州ではいまだに戦乱が続いているのは良くないことである。国や郡の境目争いについては,双方の言い分を聴取して,追って決定する。まず敵も味方も戦いをやめよというのが叡慮である。もしこれに応じなければ,直ちに成敗するであろう。」
(2)
 1586年,島津氏は,「関白殿から戦いをやめるように言われたが,境を接する大友氏から攻撃を受けているので,それなりの防戦をせざるを得ない」と回答した。
(3)
 1587年,島津氏は秀吉の攻撃を受けたが,まもなく降伏した。一方,中国地方の大名毛利氏は,早くから秀吉に協力した。秀吉は島津氏に薩摩国・大隅国などを,毛利氏に安芸国・備後国・石見国などを,それぞれ領地として与えた。
(4)
 1592年に始まる朝鮮出兵では,島津氏も毛利氏も,与えられた領地に応じた軍勢を出すように命じられた。

 

設問
A 秀吉は,戦乱の原因をどのようにとらえ,その解決のためにどのような方針でのぞんだか。3行以内で述べなさい。
B 秀吉は,自身の命令を正当化するために,どのような地位と論理を用いたか。1行以内で述べなさい。
C 秀吉による全国統一には,鎌倉幕府以来の武士社会における結合の原理に基づく面がある。秀吉はどのようにして諸大名を従えたか。2行以内で述べなさい。