13 院政と平氏の台頭


ダウンロード
2016Ver2016.2.21UP
13 院政と平氏の台頭.pdf
PDFファイル 3.5 MB

後三条天皇

摂関家を外戚としない後三条天皇が即位。

延久の荘園整理令=登録抹消の整理令1069年とゴロる。

史料研究 2つの史料が大切だ。

⑴延久の荘園整理令『百練抄』

 「(延久元年2月)寛徳2年以後の新立荘園を停止すべし、縦い彼の年以往といえども、⑵立券分明ならず、国務に妨げある者は、同じく停止の由宣下す。(同年)閏2月、はじめて⑶記録荘園券契所を置き、⑷寄人らを定む。」何について書かれたものか判断できるように。

意味:1045年以降に新しく成立した荘園は停止する。たとえ、1045年以前に成立した荘園であっても、その設置に関する証拠書類が明らかでないもの、また、国務に支障をきたす荘園であれば停止する。

⑴寛徳2年は西暦何年か。1045年。⑵は立券👉証拠書類が明らかでないもの⑶は記録荘園券契所⑷の意味は学識の優れた中下級貴族、具体名は大江匡房、この貴族、頻出、出典は『百練抄

⑵延久の荘園整理令『愚管抄』 

「この⑴後三条院の位の御時、延久の記録所とてはじめてをかれたりけるは・・・、すなわち宇治殿の時、一の所の御領御領とのみいいて、荘園諸国にみちて受領のつとめたえがたしなどいうを、聞こし召しもちたりけるにこそ。

意味:藤原頼通の時に、「摂関家の御領だ」ということをふりかざして、諸国に荘園があふれ、受領の任務が果たせないなどという不満の声があがっていたのを、聞いたからであろう。

出典:⑶愚管抄は絶対。


⑴は、後三条、⑵は、延久出典⑶は、愚管抄であり作者➡慈円は頻出。

また、石清水八幡宮34ヵ所の荘園のうち13ヵ所停止、没収された。大きな成果をあげた。

度量衡の統一もはかられた。延久の宣旨升である。

 

荘園公領制

貴族・寺社が支配する荘園と国司の支配する公領の区別が明確になる。

受領は、開発領主の開発地を郷や保などのあらたな行政単位とし、彼らを郷司保司などに任命した。年貢は名田に賦課され、田堵でもあった名主がその納入の責任を負った。

年貢のうち、糸・炭・野菜など手工業製品や特産物を納入するのを➡公事という。労役の負担は➡夫役。名主は、下人と呼ばれた隷属農民などに名田を耕作させた。

作人と呼ばれた農民は名田などの一部を請負耕作して生計を立てていた。

        蓮華王院本堂 京都
        蓮華王院本堂 京都

院政の開始

白河天皇は、1086年に譲位して上皇(院)となり、院政が始まった。以後約70年間、承久の乱まで院政が続く院庁という機関が政治的な存在感を持つことが最大の特徴である。

院政の形態

天皇家の家長として自らの子や孫の天皇をしのぐ権威や財産を持つようになった上皇は治天の君と呼ばれた。

史料研究

院政の開始 (「神皇正統記」)

 

 第七十二代、第三十九世白河院……天下ヲおさめたまうコト十四年。太子に譲りて尊号あり。世ノまつりごとハジメテ院中ニテシラセたまう。後ニ出家セサセ給テモなおソノママニテおんいちハスゴサセマシマシキ。……せんかんニテコソ天下ノ事ハこうセラレシニ、此御時ヨリいんぜんちょうおんくだしぶみヲオモクセラレシニヨリテ、ざいきみくらいニソナハリ給ヘルバカリナリ。世ノ末ニナレルスガタナルベキニヤ。

はじめに出典は、「神皇正統記」書いたのは北畠親房。が上智や明治大で出た。

譲られた太子➡堀河天皇。はじめて院政を行ったのは白河上皇

 

院政は父の立場を活用した政治形態であり、そこでは専制的な統治が可能となった。具体的には、院宣(上皇の命令を伝える文書)や院庁下文(院庁が下した文書)などを発し、さらに要所に院の近臣を送り込み従来の国家機構に背後から働きかけ国政を動かした。

上皇を中心とする勢力は院の軍事力強化のため北面の武士を置いた。

上皇は仏教を篤く信仰し白河上皇は法勝寺を造立、堀河天皇は尊勝寺を建てた。これらは六勝寺と総称される。紀伊の熊野詣高野詣も盛んに行われた。


院への荘園集中

白河上皇は造寺・造仏の費用をまかなうために、受領などの成功を利用した。

院の荘園を仙洞御領というのに対し摂関家の荘園は殿下渡という。

後白河上皇が所有した長講堂 や、鳥羽上皇の娘が父から継承した八条院などが形成された。

丸暗記事項=知行国制上級貴族に知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させる制度

奥州藤原氏

中尊寺建立の清衡基衡秀衡で繁栄し4泰衡のとき源頼朝によって滅ぼされた。

保元・平治の乱

1156年に起きた✖保元の乱や(いい頃1156起こった)1159年(人々ご苦労)に起きた平治の乱では、貴族内部の争いに武士が介入した時代となった。慶應大が年号を出題。『愚管抄』を書いた慈円は保元の乱により「武者の世」になったと位置付けた。

慈円の父が、天皇方の関白忠通であり忠通の父が忠実なのだ。この忠実が兄より悪左府の弟頼長を好んだため保元の乱が起こったことは記憶したい。

保元の乱の対立関係

 

天皇家

摂関家

平氏

源氏

後白河天皇(弟)

藤原忠通

平清盛(甥)

源義朝

崇徳上皇(兄)

藤原頼長

平忠正(叔父)

源為義

律令の五刑の死刑は約350年間停止されていたが、保元の乱の折に復活し、源為義平忠正が死刑になった。

平治の乱

保元の乱後、崇徳上皇は讃岐に流された。そして1159年後白河上皇の近臣間の対立から平治の乱勃発。

 

院の近臣藤原氏

 

 

 

通憲(信西)

平清盛

重盛

頼盛

信頼

源義朝

義平

頼朝

平治の乱後、源義朝の子の頼朝は、伊豆国に流された。

         平清盛 石田作
         平清盛 石田作

桓武平氏

平清盛は、後白河上皇の信任を得て、法住寺御所の近くに寺院蓮華王院を造営した。また京内の水陸交通の要地である六波羅を拠点にした。

1167年武士として初めて太政大臣に就任した。

娘の徳子を➡高倉天皇の中宮とし、その子の安徳天皇が即位したため天皇の外戚となった。

日宋貿易

大輪田泊が摂津国であること、➡音戸の瀬戸が現在の広島県呉市であることが出ており、場所を知っておく重要性がわかる。

12世紀に宋が女真族の建国した金に圧迫されて南宋となって以後、さらに日宋貿易は活発になっていった。日本からは、金が輸出され大陸からは宋銭や陶磁器、香料がもたらされた。

鹿ヶ谷の陰謀
後白河法皇の近臣藤原成親・僧俊寛らが京都郊外で平氏打倒の陰謀をめぐらせていることが発覚、配流された。

後白河法皇の幽閉

後白河法皇を幽閉し、多数の貴族の官職を奪った。平氏一族で全国30余国の知行国500カ所以上の荘園を支配する。

このような平氏の貴族的性格と論じろ!という論述問題が出ている。


「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と、『平家物語』で述べたのは➡平時忠である。