14 近代文化の発達


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NO14 近代文化の発達

思想

POINT時代ごとに分ける

①【187080年代

「新しいものと古いもの、(西洋)的なものと(東洋)的なものが無秩序に混在・併存する、独特の二元性」。日清戦争の勝利にともない、清・朝鮮への蔑視意識が強まるとともに、日本の優越さを強調し、対外膨張を積極的に主唱する思想が広がる。日清戦争は、福沢諭吉や徳富蘇峰ら知識人の多くにとって、「文明=日本」と「野蛮=清」との戦争であった。

三宅雪嶺と徳富蘇峰

国家主義思想が台頭してくる。井上馨外相の欧化政策への反発が契機となる。平民的欧化主義を説き徳富蘇峰ら保守派に反対した三宅雪嶺

徳富蘇峰平民主義(民友社)機関誌「国民之友

 徳富蘇峰は民友社を設立し、雑誌「国民之友」で平民主義を主張した。平民主義は、貴族的な欧化主義や保守的な国粋主義を排除して、地方の実業家による生産的社会の建設と近代化を達成しようとする思想である。

国粋主義…民族主義運動、伝統文化を説く三宅雪嶺政教社の国粋主義👉機関誌👉「日本人」「日本人」では高島炭鉱の惨状が掲載されている。政教社創立の一員、井上円了は自ら(哲学館)を創設、これが後に東洋大学となる。

 

陸羯南

 ⑶陸羯南は、1888年政府を退官して国民主義を唱え新聞『日本』発行。

高山樗牛

雑誌『太陽』で大陸進出を肯定する(日本主義)を説いた。

戊申詔書

日露戦争の勝利により達成感が、国家主義への疑問となってあらわれ実利に流される傾向がみられた。ゆえに、勤倹節約と皇室尊重を国民に求める戊申詔書が出された。


 

島地黙雷

島地黙雷は浄土真宗【本願寺派】の僧侶で、神道国教化に反対し、信仰の自由を主張。仏教界の➡(廃仏毀釈)からの回復に努めた。北野天満宮が北野神社にされ石清水八幡宮も男山神社にさせられた。薩摩・長州の若造連中の洋風かぶれが原因である。四条大橋は木造だったが廃仏毀釈により集められた鉄で鉄橋に代えられた。

キリスト教布教

(内村鑑三・海老名弾正・新渡戸稲造)

クラーク(札幌農学校)の影響➡内村鑑三新渡戸稲造

ジェーンズ(熊本バンド)の影響➡海老名弾正
新渡戸稲造が『武士道』を著したこと、(国際連盟)事務局次長だったことも出た。


教育の普及

1872学制公布、フランス式で自由だった。教育費は国民の自己負担。だから学制反対一揆が起こった。そこでアメリカの教育制度を参考に、1879年学制を改正して➡教育令が公布。しかし自由主義的だとして翌年改正され中央集権化された。

1886年、第1次伊藤博文内閣の文部大臣(森有礼)の時➡学校令公布。

学校令➡①小学校令②中学校令③師範学校令帝国大学令からなる。

その他1894年に高等学校令が1899年に高等女学校令・実業学校令が、1903年には専門学校令が出ている。

参考までに埼玉の高校の創設年➡1886不動岡1895浦和1899川越1895熊谷1899春日部である。
その後、1900年には義務教育期間の授業料廃止、1902年には就学率が90%を超え、1905年には女子の就学率も90%を超えた1907年に義務教育期間は6年に延長された。就学率は頻度高し。明治末期には
98%を超えた。

教育勅語

1890年発布:起草は大日本帝国憲法制定の井上毅元田永孚。教育勅語への拝礼を拒否した内村鑑三

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

民間高等教育機関

福沢諭吉の【慶應義塾】、新島襄の【同志社】、大隈重信の【東京専門学校】等が創設。

主な大学はこれ。各自志望大学の創始者は調べておくこと。

科学の発達

お雇い外国人

ヘボン(米)、フルベッキ(米)、ケプロン(米)、クラーク(米)モース(米)モースが弥生時代を何と呼んだかが早稲田で出た👉cord marked pottery。西洋美術は【フォンタネージ】(伊)らの指導のもと(工部美術学校)ができ、浅井忠「収穫」らが出た。

 また【フェノロサ】(米)とその弟子(岡倉天心)が、日本美術を再評価をすると、工部美術学校を閉鎖。西洋美術を除外した【東京美術学校】(1887)を設立した(後には西洋画科も増設)。

岡倉天心】が勤務し、かつその収集品が寄贈されたことで、世界有数の日本美術コレクションを誇る海外施設【ボストン美術館】を選ばせる問題が明治大で出た。札幌農学校については、クラークだけでなく札幌農学校開設に尽力した【ケプロン】を記憶せよ。彼のために日本で初めてライスカレーが用意された。

久米邦武事件

帝国大学教授(久米邦武)が、国学者の研究を「神道は祭天の古俗と論じて職を追われた。久米邦武は、佐賀藩主鍋島直正に仕えた儒学者で、岩倉使節団に同行し、特命全権大使米欧回覧実記』を書いている。

人文・社会科学

日本史では(田口卯吉)の『日本開化小史』という文明史論が語られた。民法典論争の(穂積八束)も記憶したい。

自然科学

出題頻度順に。 Aランク

北里柴三郎【ペスト、破傷風】・志賀潔【赤痢】・高峰譲吉【アドレナリン、タカジアスターゼ】・大森房吉【大森式地震計】・木村栄【緯度変化のZ項】)

Bランク

牧野富太郎)【植物学】・(鈴木梅太郎【オリザニン】

Cランク「西周(哲学)・田中館愛橘(地磁気)・長岡半太郎(原子構造)」

 

明治16年、東京大学卒業とともに早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となる。同18年から19年「小説神髄」を発表。同24年には「早稲田文学」を創刊。森鴎外との間の没理想論争は有名。シェークスピアの研究にも力を尽くした。その業績を記念し演劇博物館が早稲田大学構内に建てられている。

二葉亭四迷 =「浮雲

東京外国語学校露語学部中退。坪内逍遥を知り文学への志向を強め、明治20年、日本最初の言文一致体によるリアリズム小説「浮雲」を発表。また、ツルゲーネフの名訳を残した。その後東京外国語学校教授などを経て大阪朝日に入社。「其面影」などを発表。同42年ロシアからの帰国の途中ベンガル湾上に病死。

戯作文学

「水戸黄門」は、水戸黄門が悪代官相手に印籠を見せて一件落着する、代わり映えしない時代劇である。このいつもすることが決まっているワンパターンを「紋切り型」、善人が悪人を必ず懲らしめることを「勧善懲悪」という。「水戸黄門」でわかるとおり、「紋切り型」で「勧善懲悪」の物語が江戸時代からの流行で、文明開化(人知が発達し、世の中が開けて生活が便利になること。特に、明治初年、日本が西洋文明を積極的に輸入し、急速に近代化・欧化した現象)した明治初期にも残っていた。これが「戯作文学」である。仮名垣魯文の『安愚楽鍋 、政治小説では、立憲改進党系の政治家でもあった 矢野竜渓の『経国美談や東海散士の『佳人之奇遇』などがある。

しかし、この紋切り型はあまり現実味がないと考え、勧善懲悪に反発を覚える人々が現れた。「人間の現実、心理をありのままに写して描く」というものが「写実主義」で、このことが近代文学史の幕開けとなる。

硯友社
尾崎紅葉)らが設立。坪内逍遥の写実主義を受け継ぎながら大衆化。尾崎紅葉の『金色夜叉』が読売新聞に掲載された。(幸田露伴)は、内面尊重を受け継ぎ、理想主義的な作品を生んだ。

ロマン主義

自然主義と同じ部類ではあるが、自然主義とは異なり、単に趣向の違いから虚構を好んだために成立した。自己の心情、恋愛を確立。  

北村透谷)、島崎藤村らと「文学界」で活躍。近代浪漫主義運動の先駆者。自殺。小説では初期の(森鴎外)や『高野聖』の泉鏡花)、新体詩の島崎藤村『若菜集』、短歌の(与謝野晶子)は、雑誌『明星』の誌上で活躍した。「たけくらべ」の(樋口一葉)も影響下にあった。

定型詩

正岡子規)「春や昔十五万石の城下かな」俳句の革新と万葉調和歌の復興を進めた。柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺 も、子規の作品だ。子規の協力で『ホトトギス』という俳句雑誌が創刊された。子規の門下生の『土』の(長塚節)がいる。

自然主義

フランスの自然主義の影響を受けたが、フランスの自然主義にあった科学的な思考に欠けた日本独特のものとなった。できごとを「ありのまま」に書くという主義。つまり「真」を第一とした。このため主人公が自分自身の分身となる私小説を中心に書いた。

国木田独歩)の『武蔵野』、(田山花袋)の『蒲団』

島崎藤村)の『破壊』らが出た。

余裕派

西欧の近代文明の様子を目の当たりにした森鴎外と夏目漱石は、日本国内だけで盛り上がっている西欧の自然主義を冷めた目で見た。立場を一歩高い異なった地点に置いていたので、「余裕派」とも呼ばれ、反自然主義の部に属する。夏目漱石は『朝日新聞上で小説を連載した。森鴎外の『即興詩人』『阿部一族』そして『舞姫』がドイツで生まれたことが出た。