朱子学とは?

朱子学は、孟子の性善説を継承し、(人間は生まれながらに善である)個々人の道徳性を高めることで、社会秩序の維持・安定をめざします。その安定を成り立たせている基本的な人間関係が五倫である。親子のあいだの、君臣のあいだの、夫婦のあいだの、長幼のあいだの、朋友のあいだのの五つです。この二番目、主君と臣下とのあいだの義すなわち忠義が、武士たる者の心がけとして強調されることとなります。

 

陽明学中江藤樹熊沢蕃山の師弟関係。陽明学はこんな風に考える。
人はみな聖人として生まれついている。大事なのは単なる知識ではなく、実践である。これを知行合一という。
中江藤樹近江聖人と呼ばれ『翁問答』を著す。
朱子学や陽明学の受容が進むが、それは大事なことを忘れてしまっている。そう言い出した人たちがいた。
古学派だ!
直接『論語』や『孟子』から学べ!ということである。
その古学派は三つの流れがある。
聖学山鹿素行、『聖教要録』で朱子学を批判、赤穂に配流される。熊沢蕃山とともに配流されたことも問われる。
古義学派(堀川学派)京都・堀川の地に誕生。伊藤仁斎・東涯親子。古義堂を開き市井の学者として人間的な真理を追究した。『童子問』を著す。彼は朱子の解釈を経ずに、直接孔子や孟子の原点を忠実に読むことによって、その聖人の道を理解しようと考えた。仁と誠。これなり。

赤穂浪士から赤穂義士へ

一七〇一年三月江戸城松の廊下、赤穂藩主の浅野内匠頭が、高家筆頭吉良上野介に斬りつけた。将軍綱吉は、浅野に即日切腹を申し付けお家断絶を命ずる一方で、吉良は刀を抜かなかった態度が殊勝であるということで、お咎め無しとしました。一方的な裁きに憤慨した浅野の家来は主君のかたき討ちと称して吉良を殺した。近松門左衛門が著した仮名手本忠臣蔵がこの事件を有名にし、赤穂浪士を忠臣として褒めたたえる傾向が大きかった。幕府は忠臣と褒めたたえる傾向に、強く出ることはできなかった。こそ、幕府が推奨していた道徳だったのだ!だから、最初は赤穂浪士だったのに、いつのまにか赤穂義士と言われるようになる。時代の風潮は恐ろしいね。

センター過去問 倫理

徳川幕府が朱子学を取り入れた理由をセンターは問う。 1996・本 朱子学は、理を重んじて、人間社会にある上下の関係は、天地が上下の関係にあるように永遠に変わらないと説明したから。だ。徳川幕府の存続・安定を願う思想だね、朱子学は。

山崎闇斎の思想➡